社会福祉法人風土記<49> 大阪自彊館 中 弱き民衆とともに

2019年0619 福祉新聞編集部
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昭和10年ごろの釜ヶ崎

 貧窮者を世話する大阪の草分け的な授産場は1886(明治19)年に生まれている。人呼んで「小林授産所」。老任侠、小林佐兵衛(1829~1917)が米相場でもうけた大金を注ぎ、いまのJR大阪駅近くに建てた。

 

 浮浪者、生活困窮者、障害を持つ人たちなど、「明治三十六年には収容人員三百九十七人にのぼった」(司馬遼太郎の小説『俄・浪華遊侠伝』)という。

 

 官の都・江戸に対し、商人と庶民の町・大阪の面目躍如たるところがある。

 

 もう一つの特徴は、「三羽烏」といわれた元警察署長たちの活躍だろう。

 

 一人は武田慎治郎。曽根崎署長などを務めたあと1913(大正2)年、大阪府立修徳館(現・児童自立支援施設「大阪府立修徳学院」)の館長に。さらに私財を投じ、社会福祉法人「武田塾」(大阪府柏原市)を築いた。

 

 二人目が1911(明治44)年、財界人の援助で貧しい家の子に徳風学校(大阪市浪速区。やがて市へ移管)などを開いた元難波署長の天野時三郎(のち大阪市社会部長)。

 

 そして大阪自彊館の創立者、中村三徳(1873~1964)である。

 

簡易食堂を閉鎖

 

 「館内には食物其外日用品一切利益をとらずに売る方法が出来ております」

 

 1912(明治45)年に旗揚げした自彊館正面脇の看板はこう記す。三徳の運営はもともと採算など度外視だ。

 

 「これでは館そのものが危ない」

 

 主事として自彊館で働き始めた吉村敏男(1892~1975)は「第一簡易食堂」に危機感を抱く。毎月約100円ずつ赤字がたまっていく。補てんする館自体も火の車。敏男は三徳の勤める大毎慈善団を訪ねて説得、断腸の思いで1921年秋に閉じた。

 

人気の第一簡易食堂

 

 3年半の利用者は約70万人(『大阪自彊館百年のあゆみ』2013年)にのぼる。

 

 あわせて企画した慈善興業の収入で一息つき、敏男は新たな事業構想を練っていく。特筆すべきは社会問題研究の月刊誌『自彊』の創刊(1923年)だろう。

 

 大阪毎日新聞(24年4月29日朝刊)に載った出版広告文はいう。

 

 「現代の社会は民衆に依って支持され、民衆の力に依ってその完璧を期せられるべきである。本誌は社会事業の民衆化を標榜して、その研究機関たらん」

 

 8ページ。薄いが、大正デモクラシー下とはいえ、一法人が研究誌を出すのは極めて先進的だった。惜しいことに25(大正14)年の第22号で廃刊に。その年、敏男が中央社会事業協会(現・全国社会福祉協議会)の第1回社会事業講習会(会期100日)のため上京、編集へ手が回らなくなったためだ。

 

 しかし、施設の経営は倫理、経済学などに裏付けられた形へ変わろうとしていた。

 

 生活・育児相談の隣保事業(1925年)、地域の子どもを日中預かる保育部(26年)、社会思想など10講座を用意した成人教育(27年)など日常へ目を注いだ。その中で創立時以来の借入金完済にこぎつけたのは1926年だった。

 

不況と戦争

 

 29(昭和4)年の世界恐慌。大量の失業者が町にあふれた。生活保護制度などない時代だ。助けてくれる人も、また頼める人もいない弱者たち。館では大阪府の授産事業としてタワシ製造などを請け負っている。しかし、勤労意欲を欠いた人が多く、うまくいかない。

 

 共同宿泊施設にはこのころ、連日100人前後が泊まっている。敏男は「おやじ」とみなに呼ばれた。雨の日も傘を差さなかった。そもそも傘を持つ利用者がほとんどいない。そして、ぬれて歩く自分へ利用者の声と笑顔が返ってくることに気づいたのだ。

 

 続く15年戦争(1931年の満州事変ぼっ発から太平洋戦争終結の45年まで)の間は、徴兵や疎開で釜ヶ崎の労働者は激減。市街地の3分の1が焦土と化し、終戦間際の館内には被災した一握りの避難家族、そして朝鮮半島から移ってきた200人ほどの軍需工場の徴用工しかいなかった。

 

 この少し前(1940年)、三徳は自彊館の理事長になっている。

 

 無利子生業資金貸し出し、無料診療船、日本初の点字新聞「点字毎日」発刊(1922年)など大毎慈善団の事業に14年間関わった三徳は、1934(昭和9)年に退職。その2年後、八尾町長(官選)へ赴任するのだが、この間の1935年、退職金などをもとに八尾隣保館母子寮(当初の名称は「大毎記念中村塾」)を創設、忙しかった。自彊館の実務は常務理事(吉村敏男)に委ねている。

 

 敏男は朝鮮の人たちとも親身に交わった。戦後、彼らは祖国へ戻っていく。

 

 「よかったら南朝鮮に来てください。僕たちが先生を安楽に養ってあげますから」

 

 ささやかな送別会で感謝の言葉を贈られた(『弓は折れず』)。後年、当時の労働者の一人(韓国の元消防所長)が館を訪れている。しかし、館の再興はいばらの道であった。

 

【横田一】

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