社会福祉法人風土記<50> 浴風会 上 関東大震災が創設の契機

2019年0710 福祉新聞編集部
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創立期の〈鳥瞰図〉。中央の本館は6階建てで両翼(2、3階)は医室(病室)

 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7・9(東日本大震災はM9・0)の大地震が発生。横浜、横須賀、東京などで大火災が発生し、死者10万5385人という未み曽ぞ有うの大惨事となった。この関東大震災をきっかけに浴風会は創設された。

 

 地震発生と同時に内務大臣兼帝都院総裁で医師でもあった後藤新平は、国家予算15億2000万円の時代に、5億7500万円をもって復興事業に着手。同愛記念病院、同潤会アパートの建設、昭和通りなどの都市骨格の整備とともに浴風会の創設があった。

 

 震災によって自活不能になった高齢者を収容、保護する目的で、医療部門を併設した養老院を目指した。後藤新平の要請に応え、実業家であり社会事業家の渋沢栄一(中央慈善協会、のちの全国社会福祉協議会初代会長)は、82歳の高齢もかえりみず組織を立ち上げ、内外から義援金を募った。

 

 浴風会は大震災の2年後、25(大正14)年1月、内務省(初代大臣・大久保利通)が主導して、基金480万円(御下賜金330万円、一般義援金150万円)をもって、東京市麹町区(現千代田区)の社会局構内に財団法人として設立された。初代会長には時の内務大臣、若槻礼次郎が就任。その後、会長には歴代内務大臣が就き、38(昭和13)年に厚生省が設置されてからは厚生大臣になり、46(昭和21)年まで続いた。

 

 浴風会の会名の由来は、論語の先進篇中から「浴」、「風」の2文字を選んだと『浴風会八十年の歩み』にある。一部を意訳すれば「春には水を浴びて、風に吹かれてみんなで過ごしたい」。震災を生き延びた高齢者のために快適な安住の場づくりをめざした精神が伝わってくる。

 

 施設の名称も浴風園。予定地は畑作中心の農業地帯だった神田川沿いの東京府豊多摩郡高井戸町(現杉並区高井戸)の一画に約9万平方メートル(2万7500坪余)の土地を購入、1926(昭和元)年に定員500人で開園にこぎつけた。入所者のうち、2割に当たる100人が何らかの病人と考え、100床の病床を用意した。老人養護施設内に医療施設を設置したのは、日本では初めての試みだった。それは本館の建築設計の思想に医室(病室)として反映されている。

 

 もう一つは入所者の処遇についてである。「入園にあたって個別調査は定められた書式にもとづいて、相当克明に行うと共に、保護課長が面接を行い、健康診断を行って入所させている。今日でも一般的に行われていないシステムを採用していた」(『浴風会六十年の歩み』1986年刊)。

 

 この入所者(入園者)への近代的な取り組みについて、岡村多喜子・明治学院大教授は、『浴風園ケース記録集~戦前編』(2015年刊)の「戦前期の浴風会の状況」の中で、小澤一・初代保護課長の存在を紹介し、同時に医学面で尼子富士郎・初代医長が出身校の東京帝国大医学部との協力で入園者の調査、研究をした、さらに橘覚勝、谷口政香の2人が心理、社会面の調査研究をし、その成果を入園者の保護処遇に役立てていたと指摘している。これらの実積から、のちに老年医学の発祥の地と呼ばれたのである。

 

 また、被害の激しかった横浜に、25(大正14)年5月に高井戸の本園とは別に分園(横浜市保土ケ谷区星川町)を建設。28(昭和3)年の本園の完成時には、浴風会としてそれまで横浜市立救護所、玉泉寺養老院、横須賀救済院に委託していた被災者を引き受けた。

 

 なお、32(昭和7)年に、全国の養老事業者(施設86カ所)は全国養老事業協会を設立した。その事務局を浴風会が引き受けた。この協会の事業が、のちに全国社会福祉協議会・老人福祉施設協議会に移行するまで事務局業務は続けられた。

 

〈関東大震災の宮城(皇居)前の避難バラック〉。徳永柳洲画伯(1871~1936)はこれら油絵群で全国巡回展を開催、義援金を募った(東京都復興記念館所蔵資料)

 

 日本は大震災から9年もたっていない31年の満州事変から、足かけ15年の戦争に突入し、甚大な被害を国内外に与え、それは45(昭和20)年の敗戦で終わった。その前後のことについて灘尾弘吉第33代会長(文部、厚生大臣・衆議院議長を歴任)は語っている。

 

 「戦争によって建物が軍に接収されたり、入所者が減少するなどによって、甚だしく事業不振に陥ったり、また終戦直後は極端な物資不足により、入所者処遇にも困難をきわめるなど苦難の時代もありました」(『浴風会六十年の歩み』)。

 

 46(昭和21)年、生活保護法施行。アジア救援公認団体(ララ)から救援物資。続いて病室再開に国内外からの慰問が続く。51年に社会福祉事業法(現社会福祉法)施行。9月に「としよりの日」(のちに「敬老の日」)行事始まる。翌年に日米講和条約発効によって日本は7年ぶりに主権を回復する。

 

 同じ52年4月には浴風会は財団法人から社会福祉法人に改組し、新たな出発をした。当初の役員は会長・斎藤惣一、理事長・下松桂馬、理事は賀川豊彦、赤木朝治、木村忠二郎、葛西嘉資が就いた。 

 

【高野進】

 

 

 

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