社会福祉法人風土記<52> 天竜厚生会 中 国に一歩先んじて「10カ年計画」

2019年0926 福祉新聞編集部
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展望台付きの総合事務所。右の木造は厚生寮、手前は雪をかぶった茶畑=1967年ごろ

 池田内閣の所得倍増計画に始まる1960年代の高度経済成長は、貧困を減らし、日本を長寿の国にした。半面、高齢化への不安、核家族化、心身障害児・者の施設や保育所の不足といったひずみも生んだ。このため1971(昭和46)年、国は社会福祉施設緊急整備5カ年計画に着手する。

 

 静岡県は一歩先んじていた。国より4年も早い1967年、「県心身障害児(者)総合対策委員会」を立ち上げている。が、さらに先駆けていたのが、天竜厚生会の事務局長となる山村三郎であった。

 

「10カ年計画案」

 

 初代理事長の宍戸芳男・天竜荘長は財団法人になって3カ月後、国立久里浜病院長(神奈川県)へ転勤。慶応大の同窓で山持ちの内山竹蔵・元二俣町長が継いだ。15年間無報酬で尽くし、1965(昭和40)年永眠。後任にと頼んだ長男の内山信一・浜松カントリークラブ理事長(当時)へ、山村は「施設整備事業計画(10カ年計画案)」を示した。

 

内山竹蔵・第2代理事長

 

 31の事業を提案している。地元・浜北市(現・浜松市浜北区)より公設民営方式で運営依頼のあった保育所(5カ所)のほか、重い精神薄弱児・者の施設各1、厚生寮の重度身体障害者施設化、診療所開設や特養の増築、職員宿舎づくりなど盛りだくさんだ。

 

内山信一・第3代理事長

 

 「地域には制度のすき間で放置同然の障害者や寝たきりの老人がたくさんいる。篤志家の善意に代わり、これからは〝公による福祉〟の時代になります」と山村から聞いても、にわかに釈然としない内山は、計画案を県民生部へ打診。「竹山祐太郎知事も肩入れする」旨の返事に、第3代理事長就任をのんでいる。

 

 「林業も社会福祉的な面が多い」と語る、豪放かつスマートな名士であった。旧制静岡高、東大と野球(部)を続け、法学部を卒業し銀行へ。兵役を経て戦後はふるさと天竜で山林家として生きた。県森林組合連合会長、静岡第一テレビ社長、県社協会長などに担ぎ出された自称「団体屋」である。

 

 1996(平成8)年、87歳で亡くなるまで30年余、福祉の充実に尽力した。

 

 やがて山の上は建設ラッシュに。補助金要請に県内市町村をくまなく歩いて頭を下げ、首長らを理事に迎えた。県の手厚い補助金も加わって1967~76年の10年間、ほとんど山村の計画案に沿って運んだ。まさに成長期。

 

 もう一つ弾みになったのが身体障害者福祉工場。「自ら働き、賃金で食べていける職場を」。国の方針にも基づき、山口、大分両県と天竜の全国3カ所に設けられた。矢崎計器(現・矢崎エナジーシステム)天竜工場の出先として50人の身障者の働く工場が1972年、山の上で稼働した。

 

 4本のベルトコンベヤー上を流れるLPガスメーターの部品を組み立てた。

 

 「障害も能力もさまざま。10工程ほどある配置を本人や厚生会と相談して決めた。初めは不良品も出た。でも慣れていけば、遜色ありません」

 

 1年ほど福祉工場へ出向した元社員の松井利高さん(78)=浜松市在住=は45年前の記憶をたどってくれた。

 

 県も国有地の確保を後押しした。霞が関にいて福祉工場創設に関わったのが、第4代の故・塩崎信男理事長=元厚生省監査指導課長。このころから山村と親交は厚かったという。しばらく見学者は絶えなかった。現在、工場は矢崎の仕事からクリーニング主体へ移行している。

 

「やらまいか」精神

 

 山村の思いの中には、西ドイツの福祉の町・べーテルがある。障害や加齢、そして時代の変化に細やかに対応できる複合施設。「なんでこんな大きなものを」。周囲にいぶかしがられつつ、50人も宿泊できる心身障害者福祉訓練センター(1980年)を建てたのもその一つだ。

 

 「そろそろ施設づくりはこのあたりまでで」。事務局次長として内を固める大石勝馬はハラハラし、時にこうつぶやいたという。

 

 いまセンターは小中高校生らの福祉教育の場として年約4000人が利用。昨年度末までの受講者は延べ17万4000人余に達する。

 

 施設が整えば、必要なのは人材。「整備事業計画の10年」の終わるころ、山村や大石の子弟(第二世代)や若い職員が福祉の戦列に参入してくる。県西部に伝わる「やらまいか(一緒にやろう)」精神だろう。

 

 特に、10年間で計画の倍の10園もできた保育所現場はてんてこ舞いだったらしい。「29歳で園長ですよ。24人の子を2人で世話した。最低基準はあるが、今ほど厳しくなかった」と小杉由喜さん(74)。大石の長女である。

 

 山村は、厚生会看護師で次女の渡邉房枝さん(68)に沖縄のホテルで点滴をしてもらいながら強行した講演旅行のあと直腸がんに倒れた。1988年、67歳で現役のまま生涯を閉じる。前年、心筋梗塞により69歳で逝った大石の後を追うように。=敬称略 

 

【横田一】

 

 

 

 

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