社会福祉法人風土記<54> 日本心身障害児協会 島田療育センター 中

2019年1113 福祉新聞編集部
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島田療育園を訪れた水上氏(右から2人目)と小林園長(右端)   

 重症心身障害児のための施設建設予定地のめどはついた。次の課題は整地だった。資金がないのが悩みだったが、全く当てもなかった。

 

 ところが、施設づくりを主導していた日本赤十字社の小林提樹医師のもとで働いていた伊藤貞子・児童指導相談員(後に島田療育園常務理事)が、知人のアメリカ人宣教師に助けを求めたのが転機となった。

 

 米軍立川基地司令官に整地の協力を要請する知恵を授けられた小林は、障害児の悲惨な状況を懸命に説明した。この熱意が通じて、米軍のブルドーザーが無償で出動となったのだ。

 

 1958(昭和33)年4月から整地作業がスタートし、小山が連なる多摩丘陵に力強いエンジン音がとどろき、8月には障害児施設建設予定地に姿を変えた。

 

 小林や島田夫妻が「次は建設工事」と、意気込んだのもつかの間、施設建設のきっかけとなった島田夫妻の次男、良夫君(10)が不慮の事故で死亡した。知らせに夫妻は泣き崩れた。小林も衝撃を受け、関係者みんながその後を心配した。

 

 だが、島田夫妻が出した結論は「良夫の冥福を祈るためにも事業を継続してほしい」だった。悲しい出来事だったが、島田夫妻の強い意志のもと、関係者は覚悟を新たにする機会ともなった。

 

 小林は、障害児への理解を深めるため世論に訴える活動にも力を入れた。57(昭和32)年の全国社会福祉大会で「児童福祉法によって措置されない矛盾」と題して訴えた。この結果、日赤での入院(収容継続)が非公式ながら許された。

 

 さらに翌年4月の東京都社会福祉大会、6月の全国社会福祉大会では「重症欠陥児の処遇とその対策」として提案。それぞれ「重症心身障害児対策委員会」設置の議決、また重症欠陥児などと呼ばれていた名称を「重症心身障害児」にすることに決定した。

 

 小林は、資金集めの手も打った。同郷・長野の実業家で政治家、小坂順造らの縁で、時の電源開発総裁、内海清温に面会を求めた。打てば響くように、内海はすぐにでも募金活動を始めるよう提案。募金の受け皿として財団法人の許可申請に着手、58年には日本心身障害児協会を発足させた。会長は足立正・日商会頭、理事長は内海総裁、その他財界の名士が名を連ね、資金づくりの態勢が整った。内海は企業を回り、募金目標の1500万円を集めた。協会は翌年6月、財団法人の認可が下りた。

 

内海清温氏(左)と足立正氏

 

 施設づくりは加速し、59年8月、協会事務所を神田に設置、事務所内に心身障害児外来診療所を開設、入所希望者の受け付けを始めた。60年9月、施設の名称を土地を寄付した島田夫妻にちなんで「島田療育園」と決め、建設工事に着工した。

 

 小林は建設に全力を尽くすため日赤を退職、協会専務理事に就いた。そして翌年、重症心身障害児療育研究委託費400万円が国の予算に計上された。

 

 日赤の小林のもとで重症児を持つ「両親の集い」を開いていた親たちが、国などへ陳情活動をしたことも功を奏した。初めて予算がついたことは、小林が目指していた重症心身障害児の療育を初めて国が正式に認めたことを意味し、その療育に道が開かれた画期的な出来事であった。療育研究委託費は次年度、600万円に増額された。

 

 61年3月、建設工事が完了。日赤から小林医師と共に働いていた医師、看護婦ら医療スタッフと障害児も移り、5月に定員50床、小児科、整形外科、精神科を持つ病院としての開設となった。

 

 病院でありながら社会福祉施設という特殊な形態をとった背景には、障害児収容施設では赤字が明白で、赤字を少なくするために病院にしたという事情があった。ただ、責任者は医師でなければならず、当然、園長は小林がやる以外にはなかった。小林は「障害児とその家族が救われればそれで満足」と引き受けた。

 

 島田療育園は、乳児院併設、サリドマイド障害特別医療保護施設指定を受け、第2期工事終了などを経て63(昭和38)年7月に開園式を迎え、小林は初代の園長に。12月には社会福祉法人への変更が認可された。この年、重症心身障害児の入所施設を目指していた「びわこ学園」(滋賀県)も開設され、重症心身障害児の親たちに朗報となった。

 

 さらに、力強い援軍が現れた。自身も障害の子を持つ作家の水上勉(1919~2004)が島田療育園を訪問、実情を詳しく調べ、「拝啓池田総理大臣殿」を月刊誌「中央公論」の63年6月号に発表した。

 

 「私の働いた金が、この島田療育園の子らにそそがれるのであったら、どんなに嬉しいかしれません」

 

 まだ障害児に対する社会の無理解と重症児を抱えた家族の負担は大きく、追い込まれた家族は、わが子の命を絶つか、一家心中をする、という悲惨な事件が続発していた時期だけに大きな反響を呼んだ。重症心身障害児問題と島田療育園の存在が社会に広く知られる契機にもなった。さらに、秋山ちえ子、森繁久彌、伴淳三郎氏らが呼び掛けた「あゆみの箱」募金運動が始まった。

 

【若林平太】

 

 

 

 

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