社会福祉法人風土記<55> 全国重症心身障害児(者)を守る会 上

2019年1204 福祉新聞編集部
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小林提樹医師が開いた「両親の集い」で語り合う母親たち(慶應義塾大学医学部の階段教室で)

 「ヒサ坊は現在、ベッドに寝たきりです。生ける屍と見る人もありますが、わたくしは生ける屍という言葉は嫌いですし、そうは思っておりません。彼はまぎれもなく生きていて、彼でなくては果たせないりっぱな使命を果たしているのです」

 

 ―重症心身障害児を持つ母の記録―『悲しみと愛と救いと』=1966(昭和41)年、佼成出版社=から引かせていただいた。著者は全国重症心身障害児(者)を守る会の北浦雅子・名誉理事長(98)。

 

 北浦名誉理事長は、わが国初の重症心身障害児施設「島田療育園」(東京都多摩市、現・島田療育センター)の開設を主導した小林提樹・医師(1908~1993)が、小児科医として勤務していた日赤産院小児科(東京・渋谷区広尾)に通院していた患者とその母親だった。

 

 小林医師は、捨て子の障害児を療育する中で、「障害児を丁寧に診てくれる先生」と評判が高かった。親たちから療育について相談を受けることが多くなり、1955(昭和30)年から、毎月第2土曜に日赤で、後に出身の慶應義塾大学医学部(新宿区)で、障害児の親たちの集まり「両親の集い」を開き、療育相談のほか、障害児について医学的に学び合う場としていた。

 

北浦雅子さんと19歳頃の尚さん(重症心身障害児を持つ母の記録より)

 

 北浦名誉理事長がヒサ坊・尚ひさし君(当時12歳)と父親の北浦貞夫・東海大学教授と共に、小林医師のもとを訪れたのは昭和34年のことだった。

 

 ヒサ坊は、一家が福岡市にいた1947(昭和22)年4月、生後7カ月の時に種痘の予防接種を受け、その10日後に種痘後脳炎による40度前後の高熱を出し、激しく痙攣した。一命を取り止めたものの、右半身まひ、言語障害が残り、両親の願いは発作、痙攣を止めることだった。東京に転居、日赤に通院するうち治療が功を奏し、痙攣は少しずつ減り、3週間ほどでピタリとおさまった。

 

 障害児を持つ親の不幸を訴えたとき、両親の集いを薦められ、小林医師から「一人で問題をしまっておかないで、お互いにそれを自分の問題として取り上げ、解決を見出すようにしたい」「自分の子どもがよくなるためには、まず隣の子どももよくならなければならない。広い視野を持つように」とアドバイスを受けた。

 

 また、小林医師が見捨てられた重症児の世話をしていることを知り、病室を見学する機会を得た。

 

 「病室には精薄で目も見えず寝たきりの子、笑うことも泣くこともできない子、手足は不自由でないのに自分の頭をゴツンゴツンと壁にぶつける子、手足が奇型の子など、わたしには病名もなにも分かりませんが、異様なものを感じざるを得ませんでした」と率直に「母の記録」に感想を記していた。両親の集いに参加するうちに、「ヒサ坊のなかだちによって生命の尊さを教えられた」とまで思うようになった。

 

 そして、重症児を持つ親たちは精薄施設に入園を希望しても、身体が不自由で自分のことが始末できないからダメだと言われ、肢体不自由児施設に行けば、知能が低いために教育や治療ができないから、と入園をことわられる福祉の現実をも知ることになった。

 

 さらに、1961(昭和36)年1月9日、小林医師に引率されて、10人ほどの母親が島田療育園に対する重症心身障害児療育研究委託費の陳情活動を経験することになる。陳情書を手に、厚生省、大蔵省、国会議員会館の間を何度も往復した。小林医師からの電話で400万円の予算決定を知らされ、国が重症児のために予算を付けた画期的な出来事と、お母さんたちは喜び合った。

 

 最初は400万円だった予算も、翌62年には研究委託費は600万円に増額され、63年には島田療育園のベッドを増やす建設補助金1325万円と療育補助費1500万円もついた。心身障害児施設・びわこ学園(滋賀県)にも予算がつき、お母さんたちは「よかった、よかった」と喜び合い、生まれて初めての陳情活動を経験したことで、「そうか、そういうものだったのか」と納得したのだった。

 

 ところが、一人、また一人と島田療育園に入園できたことを喜び合った母親たちに新たな問題が持ち上がった。

 

 63年に出された厚生省の事務次官通達で、島田療育園は児童福祉法による施設ゆえに、18歳以上の者は入れないというのだ。18歳以上の子を持つお母さんたちは途方に暮れた。   

 

【若林平太】 

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