社会福祉法人風土記<55> 全国重症心身障害児(者)を守る会 中

2019年1211 福祉新聞編集部
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第2回大会であいさつする橋本登美三郎・官房長官

 児童福祉法の上では、施設に入所できるのは18歳まで。制度の壁に、「私が死ぬときはこの子の首を絞めて一緒に連れてまいります」と、途方に暮れたお母さんたち。

 

 わが国初の重症心身障害児施設、島田療育園(東京)を立ち上げた小林提樹医師は、お母さんたちに「重症児の実情をもっと社会に知ってもらうために『親の会』をつくって働き掛けませんか」と励ました。

 

 島田療育園のために陳情活動をした経験を持つお母さんたちだが、会を結成する経験や知識がない。それでもすぐに動き出した。

 

 陳情で知り合った代議士の秘書から全国社会福祉協議会(全社協)の見坊和雄・業務部次長(後に同事務局長、福祉新聞社長)を紹介された。1964(昭和39)年3月に面談し、「全部の重症児に温かい保護の手が差し伸べられるよう、親たちは一緒に立ち上がりました。社会の谷間に取り残された重症児を救っていただきたいのです」と訴えた。

 

 難しい問題があるとしながらも、見坊次長は、「全日本精神薄弱者育成会」、「全国肢体不自由児父母の会」との話し合いの場を設けた。その結果、どちらかの組織に入るよりも、独自の組織「全国重症心身障害児(者)を守る会」を目指したい、という親たちの強い意思が通り、2団体は先輩として協力することになった。

 

 名称を親の会ではなく「守る会」としたのは、多くの人々の協力がないと、子どもたちの命が守れないと痛感していたから。また、児(者)と表記したのは「18歳以上の存在も忘れないでほしい」という思いが強かった。

 

 見坊次長ら全社協関係者の協力を仰ぎながら、趣意書の作成、発起人会の開催、会則の作成など次々と準備が進み、同年6月13日、「全国重症心身障害児(者)を守る会設立総会」が東京都港区の発明会館で開かれた。北海道から鹿児島まで全国から約100人の親ら保護者が参加した。小林医師のもとで開かれていた「両親の集い」は、そっくり「守る会」に引き継がれた。結成大会に続き、当時の文部大臣、灘尾弘吉・全社協会長ら多数の来賓を招き、要望大会が開かれた。

 

 「重症児を持つ親としていつも脳裏を離れないことは、わたしたちが死んだとき、この子はいったいどうなるのだろうか、ということです」などと涙ながらに実情を訴えた。さらに、守る会のスローガンとして「重症心身障害児者のための特別立法制定」「障害児対策の年齢制限撤廃」などを決め、初代会長にはヒサ坊の父親、北浦貞夫・東海大学教授が選ばれ、母の雅子さんは理事になった。

 

 結成大会の様子は新聞、テレビでも報道され、会の仮事務所になっていた北浦家には問い合わせの電話や手紙が殺到、反響の大きさをうかがわせた。

 

1964年に開かれた守る会の設立総会

 

 小林医師の助言をきっかけにした社会に訴える作戦は的中。重症児に対する世論は盛り上がった。前年に作家の水上勉が「拝啓池田総理大臣殿」を雑誌に発表したことも世論の注目度を上げることになった。

 

 結成翌年の1965(昭和40)年6月、第2回の「守る会」全国大会は、さらに大きく盛り上がった。東京都千代田区の久保講堂に集まった会員は853人に増えた。北浦会長は「尊い生命を持って生まれながら、自分で自分の命を守ることのできない弱い重症児(者)を、つつがなく守ることができる明るい社会になってこそ、本当の文化国家が確立するのではないでしょうか」とあいさつ。静岡県から参加した女性は「孫の重症児を抱え、財産も使い果たし、いまは精も根も尽き果てました。どうぞ、施設をつくってください」と涙ながらに訴えた。

 

 佐藤栄作総理大臣の代理として出席し、訴えを聞いていた橋本登美三郎・官房長官は用意してきた祝辞を演台の脇に置き、「みなさんの悲しみを悲しみとし、不幸を不幸として受け止めるだけの愛情が、我々政治家にはなかったのではないでしょうか。私の子に孫に、この不可抗力の病気がやってこないと誰が保証し得ましょうか。総理の代理として、予算の面に対しても飛躍的な措置をすることが、みなさんに報いる道だと思います」と涙声であいさつ、感動を呼んだ。

 

 その後、7月1日には首相官邸で政府、守る会、支援者の評論家・秋山ちえ子、作家の水上勉らとの懇談会が開かれた。席上、国立療養所に重症児病棟を設置する方針などが示され、佐藤総理も「重症心身障害児対策を重点施策とする」と発言、重症児施設のベッド数は飛躍的に増えることになった。

 

 重症児を救おうとの声はさらに大きくなり、通所施設建設資金にと、文化人、芸能人らが呼び掛けた「あゆみの箱」募金に多くの人が協力し2600万円が集まり、民間企業の基金からも多額の寄付金が守る会に寄せられた。

 

 そして、1967(昭和42)年、児童福祉法の一部が改正され、重症心身障害児施設で18歳を超えても入所を継続できる、という特例条項が設けられた。親たちの悲願が実ったのだった。

 

【若林平太】

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