社会福祉法人風土記<56> 滝乃川学園 上 石井亮一・筆子夫妻の二人三脚

2020年0110 福祉新聞編集部
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創立者、石井亮一・筆子夫妻

 日本初の民間の知的障害児学校を運営する財団法人滝乃川学園(現・社会福祉法人)が都市化による環境悪化のため、西巣鴨村庚申塚(現・東京都豊島区)から、多摩川をのぞむ河岸段丘の一画にある北多摩郡谷保村(現・東京都国立市矢川)に移転してきたのは1928(昭和3)年のことであった。広々とした敷地内(2万3617平方メートル)を立川段丘崖下からの湧水を集めた矢川が流れ、田を潤し、府中用水に注いでいる。

 

 創立者の石井亮一(1867~1937)は、日本聖公会産みの親ウィリアムス主教と出会い、感化を受けキリスト教を信仰することになった。その聖公会が運営する外国人居留地・築地にあった立教女学校の教頭時代、1891(明治24)年10月28日に岐阜県本巣郡の根尾谷を震源とした、国内最大級(M8・4)の濃尾大地震が発生した。岐阜県全域に甚大な被害を与えた。その孤児救済活動に岡山孤児院の石井十次、大阪博愛社の小橋勝之助と共にあたった。この時、岐阜県に対し明治天皇をはじめ皇室からは御下賜金、御料木の提供。一方、済生会、大学病院などは多くの医療従事者を派遣、日本赤十字社は創設者・佐野常民らが現地入りした。県内の囚人も支援、復旧に加わった。

 

 

 石井亮一は聖書マタイ伝の「いと小さき者の一人になしたるは、すなわち我になしたるなり」を座右銘とし、濃尾大地震をきっかけに女子教育者として、小さきものである少女孤児の救済にあたったのである。当時、少女孤児の人身売買が問題視され、その解決が急務であった。大地震から2カ月後には、近代日本における国家資格を持った、最初の女性医師であり女性運動家だった荻野吟子(1851~1913)の協力によって、「荻野医院」(上野西黒門町)を仮院舎として「孤女学院」を設立し、岐阜の少女孤児20余人を受け入れることにした。

 

 翌年(明治25年)、北豊島郡滝野川村(現・東京都北区)に寄宿舎付きの女学校「孤女学院」を完成させ、仮院舎から引っ越す。この時の決意を「孤女学院設立の告白」(概要・資料提供は石井亮一・筆子記念館=館長・米川覚前滝乃川学園常務理事)として次のように残している。石井は24歳であった。

 

北区滝野川村に設立した孤女学院の園舎

 

 私は女子教育に従事する事を一生の仕事と秘かに決意していました。父兄、学費がある者だけが教育を受けられる幸せものであります。今まで、一般の女子教育をする人多々いましたが、孤女の教育に至っては環境を悪用する者ばかりでした。

 

 孤女一人ひとりに合わせて学びを与え、保母となり、女工となり、産婆となり、看護婦となり、教師、伝道師となって更にその能力を伸ばし、女性達の先駆者となって貰いたい。そのために彼女たちの養育、教育のため終生の力を注ぐことが出来れば幸いである。(概略)

 

 この決意を持って女子教育を始めた。少女孤児の中に知的障害児(当時、白痴と表現)が1人いることに注目し、知的障害児教育の必要を強く感じた。そして以前から関心を持っていた米国の研究を調べるために、1896(明治29)年に海を渡るのである。そこで米国には既に専門の教育をする学校が10校もあることを知り、日本は40年遅れていると痛感して帰国。97(明治30)年「孤女学院」を知的障害児教育施設として、名称を所在地にちなんで「滝乃川学園」と改称。また生徒を広く募集し特殊教育部と、障害のない子どもに障害児の特性を教える保母養育部を設け、教育は本格化していく。近くに陸軍の施設が造られるとあって1906(明治39)年に隣接する西巣鴨村庚申塚に移転した。

 

 石井筆子のことである。1884(明治17)年に父親が共に旧肥前大村藩(長崎県)の出身だった縁で、鹿島果はたすと結婚し3人の娘を授かった。しかし3人とも障害児で、次女が早世する不幸に見舞われ、続いて夫も36歳の若さで亡くなる。その時、亮一の学園に長女、三女を預けたことから親交が深まり1903(明治36)年に結婚に至った。

 

 『滝乃川学園百二十年史』編集代表・津曲裕次(大空社・2011年刊)によると、筆子の父、渡辺清は長崎で勝海舟に蘭学を学ぶ。東征軍の参謀として西郷隆盛らと共に戦い、江戸城無血開城の場に列席した人物。明治政府では知事、貴族院議員など歴任する。生涯にわたって筆子を支援したのは、筆子の叔父、渡辺昇で長州の桂小五郎(木戸孝允)の門下となり、坂本龍馬らと薩長同盟の仲介役を果し、のちに政府の要職に就いた。

 

 筆子自身は1872(明治5)年に上京し、日本初の官立(国立)女学校で現在のお茶の水女子大学付属中学高校の源流である「東京女学校」に入学。同窓生にはのちに滝乃川学園3代理事長になる渋沢栄一(1840~1931)の長女・穂積歌子、共立女子大学創立者のひとり鳩山春子らがいた。筆子は1877(明治10)年、クララ・ホイットニーの「英語・バイブル塾」に通い、キリスト教と出合うのである。

 

 

【高野進】

 

 

 

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