社会福祉法人風土記<58> 四天王寺福祉事業団 上 聖徳太子の教えを今に

2020年0227 福祉新聞編集部
    • このエントリーをはてなブックマークに追加
森田俊朗管長、左の絵の中央が聖徳太子

 〝大阪の仏壇〟と浪速っ子に親しまれる大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(森田俊朗112世管長)。日本における仏法最初の官寺(官府が建て、運営費を出す寺)だ。建立したのは十七条憲法や冠位十二階で知られる聖徳太子(574~622)である。

 

四天王寺の五重塔と仁王門(左)南には「あべのハルカス」

 

 物部氏と蘇我氏とが争い、太子は仏教をあがめる蘇我氏側につく。勝利の暁には仏教の守護神・四天王をおまつりし、国の繁栄・人々の幸福を願うお寺をつくるとの誓い通り、推古天皇元年(593年)に造営した。

 

 あわせて寺の周りに四箇院を造った。仏の教えを広める敬田院、病を治す療病院、薬を授ける施薬院、恵まれない人々を慈悲救済する悲田院。敬田を除く三院は仏教の慈悲をもとにした飛鳥時代(6世紀後半~7世紀前半)におけるソーシャル・セツルメントといってよかろう。

 

 その志を今に伝える社会福祉法人四天王寺福祉事業団(理事長=瀧藤尊淳・和宗宗務総長)は本部を寺の一角に置く。病院のほか、高齢者施設、保育や障害者、母子と活動は多岐に及ぶ。さらに小学校から大学(大学院)まで運営する学校法人四天王寺学園も系列にある。

 

瀧藤尊淳理事長

まずは病院から

 「わが国最初の社会奉仕精神の再興を」

 

 こんな機運が盛り上がったのは太子1310年御忌にあたる1931(昭和6)年のこと。大阪の陣(1614年冬と15年夏)で伽藍を焼失するなど、いくたびかの戦禍を経て、事業は途絶えていた。そのころ商都・大阪は29(昭和4)年の世界恐慌のあおりで貧困層はあえぎ、四天王寺の境内には野宿者の〝家〟が並んだ。寺から遠くない西成区の釜ヶ崎(現あいりん地区)では、社会福祉法人大阪自彊館が授産事業に奔走していた。

 

 四天王寺は福祉事業団(塚原大應・初代理事長、四天王寺97世管長)を興す。まずは太子が救済の基本に掲げた四天王寺施薬療病院(診療所)を境内に開いた(1931年)。

 

 続々と患者はやって来た。2年後の1933(昭和8)年、鉄筋コンクリート造り4階建てにして新築。重要文化財・石の鳥居から境内を出て道路ひとつ隔てた先にそびえる現在の四天王寺病院(7階建て、197床)の場所である。

 

 当時のデータが残っている。払える患者からは「軽費」をもらい受け、一方で生活保護法などにかからない困窮者は無料あるいは低額で診ている。事業団の『福祉事業再興五十年誌』(1981年)によれば、その数はすさまじい=表参照。すべて四天王寺、ならびに浄財でカバーし、地域住民の〝健康の灯〟となった。

 

 さらに悲田院事業へ。幸いなことに、大阪府東南部に路線を持つ大阪鉄道株式会社(1943年に現近鉄へ統合)が南河内郡埴生村埴生野(現羽曳野市)にある土地約1万平方メートルを無償提供してくれた。事業団の発起人であった同社の役員がとりもってくれたという。

 

 すぐ北には藤井寺球場(元近鉄バファローズのホームグラウンド)が28(昭和3)年にオープンしていた。太子の墓所のある太子町に接し、日本最初の主要道・竹内街道を東へ進んで金剛山地(竹内峠)を越えれば奈良県だ。

 

 同街道は難波宮と大和飛鳥京を結ぶ中国からの文化伝来ルートである。沿道の堺、藤井寺、羽曳野3市をまたぐ「百舌鳥・古市古墳群」は2019(令和元)年、世界遺産に登録。今でこそ住宅地だが、かつては瑞穂の国を象徴するような黄金色の水田地帯であった。

 

お年寄りと子ども

 悲田院の始まりは生活保護施設の養老ホームである。世のためにと、浪速の商人らが資金を寄せてくれた。37(昭和12)年10月の完成と同時に、寄る辺なきお年寄り40人が共同生活へ。盧溝橋事件をきっかけに日中戦争の火ぶたが切って落とされた3カ月後であった。

 

 しばらくして、にぎやかに。7~15歳の中国人の児童68人(うち女児8人)が39(昭和14)年に日本へやってきたのだ。戦火で家族を失った子どもたちを温かな環境でと、大阪毎日新聞社会事業団などの肝煎りで実施した隣邦児童愛育事業。

 

 新館を造り、日本人児童も受け入れて日中の子どもたちは悲田院から近隣の小学校や旧制中学、工業学校などへ通い、一部は卒業した。なかには慶應大経済学部へ進学し、そのまま日本に残った中国人子弟もいる。

 

 しかし、時代は無情だった。戦況が厳しさを増すとともに、中国人児童のほとんどは帰国していく。

 

 そして1945(昭和20)年3月13日深夜から14日未明にかけての最初の大阪大空襲。市内は焼け野原と化す。四天王寺の五重塔は焼け落ち、施薬療病院の本館・別館も全半焼し、診療は休止に追い込まれる。あと5カ月ほどで終戦という時であった。  

 

【横田一】

 

 

 

『四天王寺縁起』の研究―聖徳太子の縁起とその周辺
榊原史子
勉誠出版
売り上げランキング: 1,323,712
    • このエントリーをはてなブックマークに追加