社会福祉法人風土記<59> 蓬愛会 中 高齢者福祉へ新法人

2020年0408 福祉新聞編集部
    • このエントリーをはてなブックマークに追加
大山知子現理事長

 石川渉(1926~2010)は、県職員の退職金を基に1985(昭和60)年、南那須社会事業協会とは別に社会福祉法人「蓬愛会」を設立し、新たに高齢者福祉事業を開始する。翌年に特別養護老人ホーム「而今荘」(短期入所併設)を芳賀町に開設する。

 

 地域共生の地域福祉とともに、かねて高齢者福祉の充実を模索していた石川だったが、転機は北欧視察だった。退職2年前の80(昭和55)年に「北欧を中心とした視察団」(福祉新聞社主催)に参加し「北欧福祉の実際を目の当たりにし、大きなショックと深い共感を覚えた。文化歴史が異なるので、北欧諸国のそれを直ちにコピーする早計は避けなければならないが、個人の尊厳を守り、すべての人が地域社会の中で人生を送ること、これを基本理念とした福祉活動プログラムがあり、これを市民参加で発展させていることはおおいに学ばなければならない」と、而今荘設立時に作成した「蓬愛会・而今荘運営の基本」に記している。

 

 行政経験の中では実現し得なかったものを求め、実現の可能性を持った政治の場に挑戦し失敗したものの、理想実現に向けた夢は追い続けていたのだった。

 

 91(平成3)年、蓬愛会は栃木介護福祉士専門学校を宇都宮市内に開校する。人材育成と専門職種の必要性を痛感していた石川は、「社会福祉士及び介護福祉士法」(昭和62年制定)が契機となって社会福祉法人が介護福祉士の養成専門学校を運営できると知ってすぐに動いた。それまで社会福祉法人の学校経営には融資するシステムがなかったが、社会福祉・医療事業団(現福祉医療機構)から貸し付け対象になるということで2億円強を借り入れて設立した。

 

 

栃木介護福祉士専門学校

 

 

 社会福祉法人立の介護福祉士養成校の草分け的存在だが、今も設立時からの介護福祉学科のみの単科校を貫いており、1学年の定員は40人で就職率は100%。

 

 縣和尋(法人在職24年)学校長は、「石川理事長は車の運転免許を持っておりませんでしたので、私が運転をする機会がありました。その折り、就職して間もない栃木県庁時代の昔話の一つとして『極度の貧困の中で、子どもは進学したい、もっと教育を受けたいと願っており、その都度何とかしなければ、何とかしたいと自分を奮い立たせたものだ』などと戦後の母子家庭訪問時のことなどを聞かせてもらったものです。数十年を経ても理事長はその時の思いを忘れずに、常に原点とともにあるのだなと感動を覚えたものです。情熱は大きな力になります。わが校の学生も情熱を持った介護福祉士になってほしい」と語る。

 

 専門学校が開校した年、石川の長女・大山知子(現理事長)が常務理事に就任する。法人設立には当初は反対だった大山は「反対というか、気乗りしなかったのです。私は当時、教育現場の仕事に就いており仕事にひかれていました。未来あふれる子どもたち相手の仕事に夢を見てもいました。それが急に高齢者に関わる仕事と言われ、私は福祉を学んだこともなく、すぐには気持ちの切り替えができなかったのです」と振り返る。

 

 しかし、父・石川の福祉にかける熱い思いに共感し、やがて父と一緒に〝燃える福祉〟をしたいと考えるようになる。決断してからは潔い。仕事を辞め、法人設立手続きからすべてを大山が行うことになる。「父の社会事業大学時代以来の人脈を通じて多くの方々に会い、福祉の基本・心得・知識など多くのことを学ばせていただきました。父の深慮でした」と大山は言う。

 

 「法人を家族経営化しない」を基本にしていた初代理事長だったが、唯一の例外が長女・大山知子の起用だった。

 

 「大山理事長は、100%初代理事長の遺伝子を継いでいますね」と縣学校長が言うように、芯がありブレない。正義感が強く情熱家のところなど父親にうり二つで、石川も理念・理想の実現には自身の最適のパートナーになると考えていたようだ。ただし、福祉は素人、一から学ばなければならない。

 

カラフルになった而今荘

 

 まず、事務・会計からスタートした。これも「法人経営は、会計が分からなくては話にならない」との石川の考えによるものだった。そして大山は、カラーセラピーなどを取り入れ、設立当初は無難な色の建物だった而今荘を、カラフルな色に塗り直すことなどを手始めとして情熱全開で次々と新たな事業を展開していく。

 

【荻原芳明】

    • このエントリーをはてなブックマークに追加