混血児の母 澤田 美喜①
風呂敷包みから乳児死体

2013年0909 福祉新聞編集部
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 神奈川県大磯町のJR大磯駅前にうっそうとした樹木に覆われた岩崎山がそびえる。道路を渡ると「エリザベス・サンダース・ホーム」の門があり、正面に小さなトンネルがぽっかり口を開け、左側の石垣に創始者・澤田美喜のレリーフが出迎える。長さ約100㍍ほどのトンネルを抜けると突然広々と開け、約3万平方㍍の敷地に児童養護施設が建てられている。まさに聖域の印象だ。

 

   「エリザベス・サンダース・ホーム」は1948(昭和23)年2月1日乳児院として創立された。第2次世界大戦が日本の降伏によって終戦を迎え、アメリカ軍を中心とする連合国軍の兵隊たちがどっと上陸してからわずか2年半。首都・東京といわず、大阪、名古屋、横浜など主要都市は戦災によって焼け野原になり、家族や家をなくした人々であふれていた。

 

 ひどい食糧難の時代で、食べ物を求め、食べるために仕事を求める人たちが目を血走らせていた。立場の弱い女性たちが多くの苦難を強いられた時代だった。

 

   創始者の美喜は、三菱財閥3代目の総帥・男爵岩崎久弥の長女として1901(明治34)年に生まれ、クリスチャンの外交官澤田廉三と結婚。アルゼンチンのブエノスアイレスに赴任した夫に同行、イギリス、アメリカにも渡り、この間3男1女の母となった。少女時代にキリスト教に関心があっただけに、結婚後は敬虔なクリスチャンになった。

 

 1936(昭和11)年アメリカから帰国後は終戦まで日本国内で暮らしていた。海軍志願兵の三男晃がインドシナ沖で戦死。さらに岩崎家が財閥解体の対象となり、東京の岩崎家本館は米軍に接収され、大磯の別荘も国に物納させる予定で、夫も公職追放で無職になるなど苦難が続いた。

 

 1947(昭和22)年2月、特攻隊から辛くも帰ってきた二男が京都大学に戻ったため、下宿の相談をするため京都までの列車に乗っていて運命的な出来事に遭遇する。

 

   列車の網棚の上に載っていた紫の風呂敷包みから黒人の赤ん坊の死体が見つかり、調べた警官があろうことか近くにいた美喜に疑いの目を向けたのだった。澤田美喜著「混血児の母」(毎日新聞社、昭和28年3月発行)にこの間の事情が詳しい。

 

 と警官は、やにわに大声で、「パン助め!」と怒鳴った。びっくりして眼を開くと、その罵声は私に向けられている。

 「こんなことしくさって、よくも図々しくしていられるもんだ」−中略−「この子はまだ生まれて二週間とたっていません。私の体が二週間以内に子を産んだものかどうか診てもらいましょう。ここではだかになりますから」。−中略−

 私は、あたりが盛り上がる騒ぎとは反対に、ますます冷静になっていった。誰か、この混血児の味方になってやらなければならない。いや、母のいないこの孤児たちの母になってやらなければならない。自分が今、この黒い赤ん坊の母に間違われたのは、大きな意味があるのだ。天の啓示かもしれない。そうだ、一切の責任を私がひきうけよう! じっと両眼をとじて祈りをささげる私を警官はもてあまし気味である。

 

   結局、実直そうなおじいさんが現れ、静岡から乗って、名古屋で降りた女が紫色の風呂敷包みを持っていたと証言したため、混血児の母では、との疑いは晴れた。45歳のことだった。(敬称略) 【若林平太】

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