混血児の母 澤田 美喜②
施設作るなら大磯に!!

2013年0916 福祉新聞編集部
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 列車の中で「混血児の母」と疑われたことをきっかけに、「混血児の母になる」との思いは強くなる。東京銀座の歌舞伎座裏で、神奈川県藤沢市鵠沼の川などで混血児の死体を続けざまに見て、美喜は「もう一刻の猶予もできない」と心は決まった。

 

 そんな折に、三井家の乳母として40年にわたり日本で生活を続けていたイギリス人のエリザベス・サンダースが170㌦(当時で6万1200円)の遺産を残して1945(昭和20)年暮れに80歳で亡くなっていた。聖公会の孤児院のために寄付するとの内容の遺書を残していた。

 

 聖公会の会員だった美喜にも連絡があり、1947年10月、東京・築地の聖路加国際病院で開かれた混血乳幼孤児収容施設設立発起人会に招かれた。発起人会では、遺産を設立基金とし、エリザベス・サンダース女史の名を冠した施設にすること、発起人代表は美喜と決まった。孤児救済に動き出したさ中の神の導きのような成り行きだった。

 

 美喜は、イギリス滞在中に見学したロンドン郊外の孤児施設「ドクター・バーナードス・ホーム」を鮮明に思い出していた。森や林、池や畑がある美しい自然の中に乳児院、孤児院、小学校、中学校、技術学校、工場、病院など無数の施設が点在する風景だ。

 

 そこには健康に満ちあふれ、さっぱりした衣服をまとい、楽しげに歌っている子供たちの姿があった。この施設を見た時に、自分も終生の事業として取り組みたいと思ったことを確認したのだった。

 

 さっそく父・岩崎久弥に大磯の別荘を利用させてほしいと頼んだ。久弥は「世が世ならば、大磯の別荘ぐらいその仕事のために寄付してやるものを…」と言ってくれた。しかし、別荘は財産税200万円のために政府に物納することになっていた。

 

 広い敷地があり、山によって外界と遮断されている大磯の別荘が最適と心に決めていた美喜は、GHQに乗り込み、「戦争の犠牲者」「戦争のために生まれた子供」のための施設を作るのだから買い戻させてほしいと談じ込んだ。

 

 粘り強い交渉の結果、個人には許可できないが聖公会名義ならOKとの回答を得た。ただ、土地価格は361万5000円と決められ、6カ月以内(1948年2月28日まで)の全額支払いを約束させられた。

 

 澤田美喜著「黒い肌と白い心−サンダース・ホームへの道」(日本図書センター版)によれば…。

 

 私はお金のことなど考えたことがありませんでした。お金はいつも湧いてくるもののように考えていたのが、こんどは自分の手で、湧かしてみることをしなければならないのです。−中略−結局、半額をただちに、残りの半分を三カ月後にということになりました。−中略−私は必死でした。私は自分が持っているもので、お金にかえられるものをことごとく売りました。アメリカ人の奥さんたちに事情を話したところ、喜んで協力してくれた人もありました。私は間もなく、奇跡的に二百万円をつくり出すことができたのです。あとの3カ月、私は憑かれたように、残りの支払いをするために走り回りました。(敬称略)

  【若林平太】

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