混血児の母 澤田 美喜③
続々届けられる子どもたち

2013年0930 福祉新聞編集部
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 美喜のもとには、旧日本軍が隠匿した物資がある。日本海軍の軍需物資を積んだ船が沈んでいるなど怪しげな話まで舞い込んで一喜一憂させた。最後の支払期日まで20日を目前に、知人の紹介でアメリカの二世から200万円の融資が受けられることになった。抵当なしだけに、利子は1カ月1割の条件だった。返済のめどはなかったが、美喜は飛びついた。ともかく大磯の別荘は教会の物に、子どもたちの家になった。

 

 1948(昭和23)年2月1日「エリザベス・サンダース・ホーム」は開園した。はじめて預かったのは2人。東京都の孤児院からの子で、一人は男の子で生後4、5カ月くらい、皇居前広場の楠公さんの銅像の下に捨ててあった。

 

 もう一人は女の子、渋谷駅付近で見つかった捨て子。早産らしく色が白く、掌にのるような小さい子だった。はじめは色が白いので混血児と思われたが、育てるうちに白いのは栄養失調のためで、日本人の子と分かった。

 

 その1カ月後、黒人の捨て子が届けられた。藤沢市の農家の畑の中に生み捨てにされたのを近所の人が見つけて、助けたという。それからは、続々届けられてきた。美喜は、すべての子を受け入れた。

 

 当初、まだ寄付金も、古着の寄付もなかった。毎月の費用は全部一人で集めた。外交官夫人だったころにしつらえた洋服や毛皮のコート、銀製の茶器セット、御下賜の銀の大花瓶なども売った。物を売り歩いていたときに泥棒と間違われたこともあった。

 

 相談に乗ってくれる者もなく、美喜の孤軍奮闘は続く。アメリカから届いたララ(アジア救援公認団体)物資にしても配給を受けるにはルールがあり、収容児が10人になってから県庁に届け出を行い、認可を受けなければならず、認可を受け正式に配給を受けたのは開設から2年半がたっていた。

 

 ただ、ララの幹部・バット博士(ジョージ・アーネスト・バット。カナダ人の宣教師で戦前に来日、戦後はカナダ合同教会の代表として再来日)とは戦前からの知人だったことから、窮状を訴え、非常用のミルクやユニホーム用の布地を特別に分けてもらい、大風呂敷に包み、夜逃げのようにかついで、両腕がしびれる重さにあえぎながら、MP(ミリタリーポリス)の目にびくびくしながら大磯まで帰ったことも。

 

 また、モルモン教の宣教師からは「必要なものを好きなだけ持っていっていい」と倉庫に案内され、缶詰や衣類を手当たり次第にいただいた。ある米軍の将校夫人は子ども服の古着を集めてくれた。理解者による支援が少しずつ広がり、美喜を励ました。

 

 借金の返済もしなければならない美喜は、アメリカの教会や友人などに寄付を懇請する手紙を夜もろくに眠らずに書きまくった。その数は5000通に上った。

 

 1948年6月、乳児院(定員30人)の認可を受け、1949年4月には、養護施設(定員30人)の認可も受け、制度の支えも受けられるようになったが、ホームの子供たちが百日咳に襲われ、57人全員がかかり、22人が肺炎を併発、4人が死亡する痛ましい事件もあった。

 

 美喜や保母らは、看病のために3カ月も服を着たままだった。子供に輸血をしたのでふらふらになったことも。美喜は、まだまだ前途は長いと思うのだった。(敬称略)【若林平太】

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