混血児の母 澤田 美喜④
ジョセフィン・ベーカーの手紙

2013年1007 福祉新聞編集部
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 ホームにいる子どもたちはほとんどが父親の名前を知らない。アメリカ兵と付き合い母となった日本女性たちもジョニーとかピンキーなど愛称しか教えられず、アメリカの住所になるといい加減にはぐらかされたらしい。

 

 彼がアメリカに帰った後、連絡が取れなくなり泣きを見る女性たちがたくさんいた。美喜がある女性のケースについて教会を通じて調べたところ、女性に渡された紙片に書かれた住所は、ニューヨークの自動車置き場だった。

 

 住所が正しくても返事が来ないケースも多かった。英語の知識を役立てようと通訳の仕事に就き、ある米軍の中尉と知り合った教養のある女性の場合がそうだった。

 

 結婚を申し込まれ、生涯を共にするとの言葉を信じて結ばれた。しかし、彼は帰国命令を受けると、本国に帰ってしまった。女性は妊娠2カ月だった。

 

 別れに際して「きっと帰ってくる」「信じて待つように」との言葉を残していたが、再来日するどころか、手紙の返事もよこさない。アメリカの妻と何事もなかったように暮らしていたのだ。日本女性は出産し、子どもを育てながら彼を2年待ち続けたが、育てきれず美喜を頼った。

 

 占領の落とし子として生まれた混血児たちはGHQにとって痛い存在だったらしく、目立たぬように、日本中に散り散りにして育てること望んでいたようだ。

 

 神戸など一部を除いて地方の施設では混血児の受け入れ実績がないためエリザベス・サンダース・ホームの開園が知られると、全国から孤児たちが集まったのはやむを得ないことだった。父はアメリカ人だから、美喜は支援を求める手紙を全米に出したのだった。

 

 ところが、「澤田は混血児を集めて反米をあおっている」などの中傷が流された。さらに、アメリカ聖公会本部からは援助打ち切りの通告を受けた。全米48州の各教区の主教たちにも同じ指令が出された。

 

 全米に支援の輪が広がり始めた矢先だけに、美喜にとっては大打撃であり、子どもたちにとっての危機だった。美喜は「一身を捧げて神の仕事をしている者とともに神がいるのか、私はそれを確かめてみる決心をしました」と手記『黒い肌と白い心』(日本図書センター)にある。

 

 1952(昭和27)年9月、美喜はアメリカに乗り込んだ。混血児問題を訴え、ホームの運営への協力を求めるために。

 

 美喜は、元々負けず嫌いでもあった。美喜の訴えに「よきアメリカ人」たちはもろ手を挙げて歓迎してくれ、新聞やラジオの取材なども忙しいほどだった。特に黒人たちの集まりでは、美喜の訴えに共鳴してくれる人が多く、人々はなけなしの財布から募金に応じてくれた。

 

 古い友人でもあった黒人の歌手、ジョセフィン・ベーカーからある日、1通の手紙が届いた。ニューヨーク時代に差別に泣いたジョセフィンを美喜が慰めたことがあったのを覚えていてくれた。

 

 「あれからもう18年たちます。今度は私が、そのお返しをする立場になりました。日本に行って、あなたの子どもたちのために歌います。報酬は考えないでください」との内容だった。1954年4月、彼女は約束通り、来日。23回もの公演を行い、多額の募金をしてくれた上、ホームから2人の子どもを養子として引き取ってくれた。(敬称略)【若林平太】

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