混血児の母 澤田 美喜⑤
アマゾン開拓に着手

2013年1014 福祉新聞編集部
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 美喜は1952(昭和27)年以来、毎年9月から3カ月間はアメリカ各地を回りエリザベス・サンダース・ホームへの支援を呼び掛けるキャンペーンを展開した。その数は11回に及んだ。

 

 混血児を養子として育てたいというアメリカ人の要望が増え、美喜もアメリカで育った方が幸せと考え、国際養子縁組の障壁となっていた移民法の改正を働き掛けた。粘り強い運動が実り、改善が図られ、国際養子縁組が活発になった。

 

 乳児院だったホームは1949(昭和24)年に養護施設(定員50人、その後120人)となり、同じ敷地内に1953(同28)年、聖ステパノ学園小学校が開校、1959(同34)年には同中学校が開校した。養子に行かずに学齢期に達した子どもたちは自宅である養護施設から学校に通うことができた。

 

 大磯の岩崎家の別荘に美喜がホームを作った最大の理由は、トンネルをくぐらないとホームに行けない山があり、差別や心ない言葉から幼い子どもたちを守る障壁が必要と思ったからだ。

 

 美喜は子どもたちには「ママちゃま」と呼ばせ、美喜が育った上流家庭のように子どもたちを育てようとした。子どもたちには「お坊ちゃま」「お嬢ちゃま」にふさわしい暮らしを与えようとした。

 

 1948(昭和23)年10月生まれで、ピアノ調律師として自立した福島秋豊(65)は、ホームで育ち、成人して実の母と再会を果たしたが、お母さんと呼べるのは、育ての母の美喜だという。

 

 ぬくぬくと、大切に育てられました。ただ、行儀作法に厳しかった。肘をついて食べていたら、バシッとたたかれた。外でつばを吐いたらきつく叱られた。いたずらをして箒の柄で激しくたたかれた子も目にした、と福島はいう。「大勢の子どもをしつけるには仕方がなかったと思う。叱った後は抱きしめてくれた。一緒にお風呂に入ってくれたし、厳しくても優しいお母さんだった。同期の友達も心からママちゃまを、お母さんと思っている」と目を潤ませる。

 

 福島は「大人になったら、厳しい社会で暮らしていかねばならない。それに耐える精神力を身につけ、『立派な社会人になる』との自覚を持たせてくれた。私たちは、肌の色や目の色などで、目立つのだから、世間から蔑視されない、きちんとした生活態度を身につけておくことが大切で、今あるのは母のおかげです」と感謝の気持ちを込める。

 

 スポーツや音楽、絵画などの分野で才能豊かな園児が多かったので、将来に希望を持ち、ベストを尽くせば道は開けると留学などの相談に乗ってくれたという。ブラジルが人種差別のない自由な国で、日本人が開拓に成功している国だけに、日本社会になじめない卒園生でも、頑張ればアマゾンの密林を開拓し、農業で成功する可能性があると、開拓に着手した。

 

 美喜は、手記に「私は一人の子を、戦争で失いました。しかし、神さまは、そのかわりに700人あまりの子を、 『わが子に…』と送って下さいました」と記した。世界に羽ばたく『わが子』たちを訪ね歩くのが生き甲斐だったが、旅行先のスペイン・マヨルカ島で死去。78歳だった。 (敬称略、おわり)【若林平太】

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