ララが来た エスター・ローズ①
日本爆撃中止求める

2013年1021 福祉新聞編集部
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 横浜赤レンガパーク前の新港ふ頭に、小さな記念碑がある。歩を止める人はまばらだ。第二次世界大戦後、ここに記す「ララ物資」が多くの日本人を飢えや寒さから救ったと知る人は、さらに少ないだろう。

 

 太平洋を越えて善意を届けたアメリカの民間組織代表の一員こそ、ミス・ローズ(本名エスター・B・ローズ、1896~1979)。戦前・戦後を通じ、日本人が最も世話になった外国人の一人といわれる、教育者にして福祉に尽くした親日家である。

 

 ミス・ローズの話へ入る前に、記念碑について触れておこう。

 

 碑は2001(平成13)年4月5日、横浜市内の経済団体などでつくる「『ララ』の功績を後世に残す会」によって除幕された。「アジア救援公認団体」( Licensed Agen cies for Relief in Asia、略称LARA=ララ)と呼ばれたアメリカの民間人による活動を記憶にとどめるためである。

 

 快晴の空から降り注ぐ春光の下、米国公使、横浜市長らとともに、元小学校長の古屋達夫さん(85)=神奈川県南足柄市=も除幕のひもを引いた。盛岡市生まれのジャーナリスト、浅野七之助(1894~1993)=日米時事新聞社長=のおいだ。

 

 浅野は元首相・原敬の書生をしたのち、新聞記者として渡米、サンフランシスコに拠点を定めた。日本の真珠湾攻撃(1941年12月8日)に始まる日米開戦により、「敵性外国人」として在米日本人、日系米人を集めた収容所で約3年を過ごした。しょうゆ、みそ、薬品など故国からの慰問品は彼らを喜ばせたという。日本国籍を通した。

 

 祖国の同胞を救えーー。各地の日系人らの間でほぼ同時多発的に声が上がったのは、日本の無条件降伏受諾(1945年8月15日)後間もなくだ。早いのはニューヨークの日本人会だったが、サンフランシスコの「日本難民救済会」は活発で、浅野が書記に。

 

 「厳寒を前に控え喰うに食なく着るに衣類なく、風露を凌ぐ家屋すら満たされて居ない状態にあり、餓死線上に彷徨する者数知れ」ず、「たとえ一食を分ち、一日の小遣いを割いても」と趣意書(1946年1月22日)で訴えた。

 

 しかし、ときは連合国軍総司令部(GHQ)の占領下。旧敵国への募金が集まり出した矢先、「『待った』がかかったのです。ライセンス(米大統領戦時救済統制委員会の許可)がいると」。碑完成の前年初夏、古屋が受け取った浅野の妻なか(故人)の手紙は、そういう。1万円のカンパが同封してあった。

 

 そのころ、アメリカ国内では戦火で荒廃したアジア、ヨーロッパの国々を救うプランの検討が、政府や宗教団体などで進んでいた。ララもその一つだ。

 

 「一番良いのは、キリスト教団を通じて、政府に嘆願することではないか」(手紙から)。では、誰に仲介を? 最終的に頼ったのが米国フレンズ奉仕団のミス・ローズだった。

 

 戦前、普連土学園(東京・港区)で英語を教え、日本爆撃即時中止を国務省に求め、日系人を支えた平和主義者。ロサンゼルス滞在を知った日本難民救済会長の川守田英二牧師は出向いて協力を頼んだ。むろん快諾であった。(敬称略)【横田一】

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