ララが来た エスター・ローズ②
亀の歩みの感化

2013年1028 福祉新聞編集部
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 ミス・ローズは1896(明治29)年、アメリカ建国(独立宣言)の地、ペンシルベニア州フィラデルフィア市で生を受けた。優しい両親(父は医師)の5人の子の二女として、「いきいきと、人との仲もよい」(妹キャロライン)、しかし「裂けも、破れも、擦り切れもしない」(弟の医師ジョナサン)しっかり者に育った。

 

 開拓期、ここはクエーカーが多かった。座禅を思わせる〝沈黙の祈り〟や〝内なる光〟、良心的兵役拒否で知られるキリスト友会(フレンズ)だ。彼女もその家系である。

 

 時計の針を11年戻して1885(明治18)年の春。フィラデルフィア友会婦人外国伝道協会に、米国留学中の2青年ーーやがて名著「武士道」で知られる日本人クエーカー第1号の新渡戸稲造(1862~1933)と非戦の宗教家、内村鑑三(1861~1930)ーーがお茶に招かれた。「日本に女子教育を」。2人の意見に協会は宣教師を送り、2年後、普連土女学校(当時の名称)を設立している。

 

 その教員募集は、幼稚園からクエーカーの学舎で送り、家政学(2年間)を修了しYWCAで教えていた1917年夏、ヤング・フレンズの会議でよく話題になり彼女の耳に。両親の友である新渡戸夫人メリーや、1892年に日本を訪れた祖父の話などから無関心でもなかったらしい。が、第一次世界大戦下(1914~1918)、みなの目は欧州支援へ向いていた。

 

 ある日、大樹の根元で涼しい風を受け、ひとり黙考していた。草むらから庭へゆっくりはい出てきた1匹の老亀に、目標へ歩む決意、頑張りを見た。「私はウサギになりたがっていたのでは……」。両親を説き、東京の土を踏んだのは同じ17年の秋である。「祈りの中で感じたことに従い社会活動する。それがクエーカー」と、「稲造精神とララ物資」(新渡戸基金)の著者、大津光男・普連土学園理事(73)はいう。

 

 日本語学校へ通いながら、英語と家庭科を受け持った。青い目、大柄のスラリとした体を紺かグレーのスーツで包んだ。普段は白いブラウスを雨の日はピンクに。「自分の名を書き添えて洗濯へ出したら、色つきで戻ってきたんですよ」と生徒を笑わせた。

 

 一時帰国し、コロンビア大学などで宗教教育などを学んだ。日本アルプスの山登りを楽しみつつ、教え続けた。関東大震災(1923年)では来日中の母マーガレットといた軽井沢から単身帰京、り災者救援にあたっている。
 ところが、日本の真珠湾攻撃(1941年)がぼっ発、その前年に半年間の予定で戻っていた彼女は6年を本国で過ごすことになる。

 

 「敵性外国人」の名で逮捕、強制排除・収容されていく在米日系人たち。14万人近いといわれる。家財や仕事、勉学の夢を奪う政府の非道に、カリフォルニア州で活動していたミス・ローズら米国フレンズ奉仕団は抗議した。

 

 学齢期の約4000人を収容所から東部の大学へあっせん。米軍による日本の都市無差別空爆中止を国務省に嘆願したとき、省の役人は防衛上やむを得ぬと前置きし、「『あなた方のような少数派があるかぎりアメリカの将来は安泰です』と涙を流しました」と戦後、教え子たちに語った。【横田一】

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