ララが来た エスター・ローズ③「旱天の慈雨でした」

2013年1104 福祉新聞編集部
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第一船「ハワード・スタンズベリー号」を横浜港に出迎えたミス・ローズ(右)とバット博士夫妻

 第二次世界大戦の砲声がやみ、アメリカの宗教、奉仕団体は一斉にヨーロッパ、アジアなどへ救援に動き出した。ほとんど海外事業運営篤志団アメリカ協議会(American Council of Voluntary Agencies for Foreign Service,Inc. 略称ACVAFS=アクヴァフス)に属し、この下に1946(昭和21)年4月できたのが「ララ」(アジア救援公認団体)だ。

 

 加盟13団体には米労働総同盟、YMCA、YWCA、ガール・スカウト、救世軍、ルーテル教会世界救援団などが名を連ねた。ララ代表として主力団体からマキロップ神父(カトリック戦時救済奉仕団)、カナダ人牧師のバット博士(教会世界奉仕団)、そして米国フレンズ奉仕団のミス・ローズの3人が就いた。

 

 「一椀のスープでも分けてください」。初回に触れた浅野七之助ら日本難民救済団が46年1月、在米日系人らに祖国支援を訴えたあと彼女に助力を仰いだのも、この前後の時期であろう。

 

 49歳のミス・ローズは46年6月、軍用機で日本へ戻った。その1カ月前、「食糧メーデー」の代表が首相官邸に座り込んだ東京の街は焼け野原だった。前年の凶作、兵隊の復員や海外民間人の引き揚げで膨れた国民の腹を満たすには、旧日本軍の貯蔵食放出では足りず、餓死、凍死も報じられた。

 

 庶民はうすで雑草を粉にひき、カエルやイナゴの調理法さえ新聞などに登場した。就任間もない渋沢敬三蔵相は「現状のままいけば、来年度の餓死、病死は一千万人」とUP記者に答えている(朝日新聞1945年10月17日付)。

 

 ところで、「一クエーカーの足跡」(普連土学園)はミス・ローズをしのぶ追悼・想い出集だが、来日後すぐ、マキロップ神父とともに厚生省を訪れた時の様子を葛西嘉資・社会局長は書いた。2人とも流ちょうな日本語と低い物腰で、こう申し出たという。「日本の生活困窮者を救援することになった。受ける用意はありますか」。まさに「旱天の慈雨」であった。

 

 軍提供の暖房付き兵舎を早々に引き払い、ミス・ローズは普連土学園(戦時中の校名は聖友女学校、空襲で全焼)そばの、冬は寒い洋館フレンズセンター(港区)へ移っていた。それまでの遅い運びをはね返すように、自ら運転するジープで関係機関を走り回った。親団体のアクヴァフスやGHQ(連合国軍総司令部)との連絡・調整、必要品目のリストづくり、さらに配給先を協議する日本側の受け入れ民間機関「ララ中央委員会」の立ち上げ。

 

 「わずか2週間でこなした。超人技」。『救援物資は太平洋をこえて』(保健福祉広報協会)の著者、多々良紀夫・淑徳大教授(故人)は驚く。中央委員には、のちに横浜女子短大学長となる平野恒子、児童福祉施設「興望館」(東京)の館長、吉見静江らが入った。

 

 粉乳、塩、うどん、米粉、キャンディー、古着など約315㌧を積んだ第1船「ハワード・スタンズベリー号」(米軍貨物船)は46年11月7日、サンフランシスコを出港した。その知らせに、ミス・ローズは「飛び上がらんばかりに喜んだ」(マキロップ神父)。(敬称略)【横田一】

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