ララが来た エスター・ローズ④復活した学校給食

2013年1111 福祉新聞編集部
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ララへの感謝会で子どもを抱くミス・ローズ(中央奥)横浜で

 「ララ」(アジア救援公認団体)の第1船「ハワード・スタンズベリー号」は1946(昭和21)年11月30日、横浜港に接岸した。物資は運搬役の米軍から厚生省へ、さらにその受領証がララ代表(ミス・ローズら3人)へ渡ったのち、戦災規模別で4グループに分けた都道府県へ運ばれていった。信条を問わず、公平、効率、迅速をモットーに。

 

 もっとも弱き者はどこかーー。3人は来日後、浮浪児やホームレスの多い街頭、児童施設など全国を歩いた。第1船到着1カ月前の10月30日朝、ミス・ローズは列車で東京から被爆地・広島入り。県の担当者からヒアリングし、戦災児育成所など数ヵ所を視察して夕刻大阪へ向かったと、中国新聞(広島市)は10行の短い記事で伝えている。

 

 配給は当初、乳児院や児童施設、老人ホーム、あるいは近畿・四国を襲った南海道大地震(46年12月)、長野県飯田市大火(47年4月)など災害救援にとどめていた。ヤミ市場へ流れるのを防ぐためだ。現に盗難や大学での横流しが新聞をにぎわしている。一例だが、トラックが横浜市の児童養護施設「高風子供園」へ走る道々に警官が立ち、「何事か」と近所の人をいぶかしがらせるほどピリピリしていた(46年12月)。

 

 それでも流通の安定とともに、47年後半から保育所、国立の病院、学校給食へと対象を広げている。とりわけ学校給食はGHQ(連合国軍総司令部)にとり、焦眉の急であった。欠食児童(朝食抜き、かつ昼食も十分でない子)を抱えた親の不安は強く、それが食糧メーデー(46年5月)の一因だったが、解決に学校給食は不可欠とGHQはみていた。民心の不穏を抑え、占領軍の安全、しいては占領成功へとつながるからだ。が、日本側は給食の復活になかなかうんと言わない。

 

 日本時間では、第1船が太平洋上を西へ進みだしたかどうかという11月8日。ミス・ローズはマキロップ神父と一緒にGHQへ招かれた。サムス公衆衛生・社会福祉局長(医師)は学校給食の再開に必要なたんぱく源は年1万4000㌧、不足は9割と打ち明け、ララの支援を頼んだ。「誓約いたしましょう」。あらかじめ厚生省係官から聞いて数字をはじいていたミス・ローズは、そう答えた(二至村菁「日本人の生命を守った男」)。

 

 結局、ララ物資に米国の食糧援助を足すのを条件に翌47年1月、一部で再開(副食のみ)した。やがてコッペパンとともに全国へ定着していった。脱脂粉乳の独特な味に顔をしかめた人は少なくない。しかし、子どもの体に浮いていたあばら骨は消え、ふっくらしてきた。

 

 食料・衣類からおもちゃ、野球用品、化粧品、文具などあらゆるものが1952年6月の終了まで間断なく届いた。乳牛45頭や2036頭のヤギも。ヤギは、水戸市に老人ホーム「愛友園」をつくり、戦時中は在米日系人を助けたクエーカー、ハーバード・ニコルソン(愛称「やぎのおじさん」)が米国の教会などに呼びかけて集めた。また別に米軍政下にあった沖縄へも送られた。「ミルクをどんどん提供してくれた」。ヤギの活躍をミス・ローズは喜んだ。(敬称略)【横田一】

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