ララが来た エスター・ローズ⑤
赤ちゃんの命を守る

2013年1118 福祉新聞編集部
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ミルクステーションで配給の奉仕活動を する生徒たち=普連土学園提供

 ララ代表の傍ら、空襲で焼けた普連土学園の再建に奔走し、聖書や英語を教えた(やがて校長、理事長)。生徒の顔を覚え、名前で接した。「生徒会活動は報告を聞くだけ。自主性に委ねていました。叱った姿は見たことがありません」。母校の学園で「聖書」の教べんをとった田中良子さん(77)はいう。背筋をピンと伸ばした体に思いやりと決断力を秘め、子どもを愛した彼女を、いまも多くの人は親しみを込めて「ミス・ローズ」と呼ぶ。

 

 役職も数々こなした。児童を世話する「興望館」(東京都墨田区)と「茅ヶ崎学園」(神奈川県茅ヶ崎市)、老人ホーム「愛友園」(水戸市)の各理事長、津田塾大学や国際キリスト教大学の理事、次回触れる皇室の英語教師、そして米国フレンズ奉仕団の日本支部代表や奉仕活動の指導者。席の暖まる暇はなかったろう。

 

 疲れた心身を毎週金曜の夜、バイニング夫人(1902~1999)宅の和風風呂につかってほぐした。楽しみのひとときであった。皇太子さま(現・天皇)の家庭教師だった夫人は、フィラデルフィアで同じクエーカーの学校に通った生涯の友だ。

 

 学校給食がスタートし、夜間高校、大学寄宿舎などへ物資が渡りだすと、食べるに欠いて母乳の足りない母親を対象にしたミルクステーション(配給所)や生活困窮家庭へも提供していった。

 

 特に貴重なたんぱく源であるミルクの効果は大きく、乳児死亡率を改善している。1947(昭和22)年に全国で76・7(1000人のうち約77人の赤ちゃんが生後1年未満に死亡)だったのが、49年62・5、ララ終結の52年は49・4へ。戦争中のほぼ半分だ。近年の2台には比ぶべくもないが、ベビーブームに生まれた〝団塊の世代〟にとり、天の助けであった。

 

 精神科医の神谷美恵子(故人)も、わが子をララに救われた一人だ。男児は無事成長し、「一クエーカーの足跡」で回想する。「彼にねがうことは、ふしぎに助けられた生命を大切に、感謝して生きて行って欲しいということ。それがミス・ローズへのつきせぬ感謝ともなると思うからです」。

 

 開拓村へもララはきた。神奈川県相模原市の麻溝台地区にあった旧陸軍士官学校練兵場跡地へ満蒙開拓の帰還者らが入植したのは戦後間もなく。水も満足にない防空ごうの横穴で、直径・高さとも20㌢を超える英文表示の大きな缶詰にみな目をむいた。大粒の干しトウモロコシ、グリーンピース、ほどよく塩味の利いたピーナッツなどがぎっしり。古いが、きれいに洗濯されたセーターをほぐし、子どもの手袋や靴下に編んで寒さをしのいだ(「麻溝台地区の生い立ち」2010年)。

 

 バット博士が初代理事長を勤めた横須賀基督教社会館(神奈川県横須賀市)の阿部志郎会長(87)は1950年に米留学し、ペンシルベニアの高校に知り合いの教師を訪ねた。昼食に誘うと、彼は言った。「きょうは週1回の断食日なんだ。生徒もね。そのぶんはララへの寄付さ」。

 

 小さな善意の詰まったララ物資は総量15万5000㌧、当時の日本円で約400億円に達した。約1400万人がその恩恵に浴した。(敬称略)
【横田一】

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