子らの母 丸山 ちよ①
父の急死で一家の柱に

2013年0114 福祉新聞編集部
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 東京都豊島区南大塚の巣鴨小学校近くの「南大塚一丁目児童遊園」の隅に石碑がある。

 

 この街で

 おゝくの子らの

 母であった

 丸山ちよ先生

 

 黒御影石に筆太の文字でそう刻まれている。その石碑は、決して忘れてはいけない人だと語りかけているようだった。  
 

 ちよは、1887(明治 20 )年山形県米沢市生まれ。 藩政時代は上杉家の家老や奉行を出した名門丸山家の6人兄姉妹の三女。姉と妹がろうあだったため、父孝一郎に「姉と妹を大切にせよ」としつけられた。小さい頃から利発だったちよは、県立米沢女学校から日本女子大学に進学、姉と妹のためにろうあ教育を学ぶ志を胸に勉学にいそしんだ。

 創立者である成瀬仁蔵校長の「貧者を扶け、窮民を救い凡て低き階級に属する人々を助けて…」の「実践倫理」の講義を通し、キリスト教社会改良主義の思想と成瀬校長の人格にも強い影響を受けた。「どんな困難が襲いかかろうと、それを乗り越えて、必ずろうあ教育に全てを捧げます」と卒業式後の謝恩会で学友を前に決意表明したエピソードが伝わっている。

 
 しかし、教職について間もなく腎臓病を患い、いったん米沢に帰郷、父親が社長をしていた米沢製糸で女工教育を引き受ける。ところが、衆議院議員として東京で活躍していた父親が1912(明治 45 )年、急死した。ちよ 25 歳の時だった。

 長兄は葬儀には出たが、自らの事業の都合で父親の事業を引き継がず、ちよに後事が託された。家財の整理、家族の生計を思案していた時、日本女子大学の同窓会組織である桜楓会から託児所経営への協力を求められた。母親とろうあの姉と妹を抱えるだけにいったんは断ったが、再三の要請に主任保母として、運営に参加した。

 

 急きょ母校の幼稚園で童謡 や折り紙を学び、級友が運営する託児所の見学をするなど開設準備をしながら、土地探しにも奔走した。1913(大正2)年、小石川区久堅町に二軒長屋と 15 坪の運動場 を借り、主任のちよと保母1人で定員 20 人の託児所は開設にこぎつけた。

 当時の小石川といえば細民地区とも呼ばれたスラム街で、日雇い仕事や車夫などを業とする人々のほとんどが長屋暮らしだった。 「朝5時に戸を開けると、待っていたように子どもが来園する。ただ困ったのは、ぼろの着物に沢山のシラミが付いていることだった」と、桜楓会の機関誌に書いたほど。

 

 ちよは、朝早くから夜遅くまで子どもたちの世話に明け暮れていたため、持病の腎臓病が再発、郷里から母とろうあの姉妹を呼び寄せ、託児所近くの長屋を借りて家族4人による暮らしを始めた。女子大卒の給料が 30 円の時代に、ちよの給料は 17 円、家族を抱えるだけに生活は相当苦しかったが、迎えの遅い子どもたちのためにおやつや夕食を出した。さらに託児所に机と椅子、オルガンも入れるなど教 育面の環境整備にも力を入れた。

 子どもたちの親からは 「このような有難いことはありません。助かります」「小遣いに日に5、6銭は使われていたのに、今度は要らないし、仕事はできるし」と喜ばれ、信頼は深まった。(敬称略)【若林平太】

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