子らの母 丸山 ちよ②
託児所の仕事こそ天職

2013年0121 福祉新聞編集部
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 ちよへの信頼が深まり、入所希望が次第に増加、手狭となったそんな折、明治天皇の皇后・昭憲皇太后が亡くなられ、葬祭に使われた建物が託児所に下賜された。1915(大正4)年には巣鴨町宮下に新園舎が完成、当初の20人から80人に定員を増やし、「桜楓会巣鴨託児所」として再出発した。

 

 ちよは、地域事情を考慮しながらの託児所運営にあたった。その一つが貯金。保育料は1銭5厘で、このうち5厘を貯金しておき退所の時に利子をつけて親に返し、喜ばれた。

 

 さらに給食を始め、おやつの時間には、近所で牧場を経営していた興真舎からの援助を受け、子どもにコップ1杯の牛乳を出したほか、日本女子大の製菓部からパンを届けてもらい育ち盛りの子どもたちは大喜びだった。
 

 広々とした新園舎が完成し、託児所の運営も順調に推移していたが、これもつかの間、母親が亡くなった。ろうあの姉妹は悲しみのあまりに食事もとらずに泣き続けた。心の支えのほとんどが母の愛だっただけに、2人の悲しみの深さと心細さを思い、本来の志望であるろうあ教育のことが頭から離れず、深刻に悩んだ時期もあった。
 

 しかし、託児所の仕事こそが天職と考え直し、悩みを振り切るように、子どもたちのために働いた。着物に割烹着姿。髪の毛は後ろでぐるぐるとまとめただけ。丸い顔に大きな目、優しさの中にも凛とした容貌のちよは、時には子どもの手を引いて、忙しく駆け回った。

 母親の会を開き、家庭の様子を聞くうちに子どもたちの健康にあまり注意を払う余裕がないと分かると、理解のある医者の協力を仰ぎ、子どもの健康相談を開いた。牛乳を提供してくれている牧場主の夫人が日本女子大の卒業生だったことから協力者としての関係が深まり、託児所に図書室を設けることに。

 

 押し入れに棚を作り、夫人の寄付で小説などや、お母さん向けの料理本など約400冊の図書をそろえた。図書室は好評で、地域の人たちに夜も開放された。

 この頃、ちよは、託児所は単なる託児事業のみに終始すべきではなく、近隣家庭の幸せにつながる「隣保事業」に拡大すべきと考えるようになっていた。そんなちよの熱意が知られるようになり、東大、早大、東洋大、日本女子大などの学生ボランティアたちが集まってきた。そのボランティアたちにより小学生を対象に復習会が開かれ、午後6時から8時まで学習と遊びの指導が行われた。

 

 復習会のほか、日曜日には「日曜学校」「母と子のピクニック」も開くなど、託児所の領域を超えた幅広い活動が展開された。さらに1920(大正9)年には桜楓会により第2託児所が日暮里に開設された。広い庭と高い天井の遊戯室もあり「貧乏人の子どもにはもったいない」といわれたほどだった。

 

 立派な施設ができたのは、桜楓会という大きな組織の力によるが、ちよの熱意が周囲に理解されたからでもあり、ちよはここの主任も兼ねた。

 折から1923(大正12)年関東大震災が発生、多数の死傷者が出た。この時もちよは、上野公園内に桜楓会が開いた被災者の臨時食堂のために働き、震災で父母を失った子どもたちを託児所に受け入れた。(敬称略)【若林平太】

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