子らの母 丸山 ちよ③
地域の生涯学習の場に

2013年0128 福祉新聞編集部
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 関東大震災後の1925(大正14)年、ちよのもとに牧賢一と名乗る青年が職員として紹介されてきた。家族の生活を支えるために働きながら進学を希望しているという。話を聞いたちよは、即座に帝大卒の初任給の倍にあたる給料で採用を決めた。青年は好意に感激し、よく働き、なくてはならない人になった。

 「婦人でも自分の力で幸福の道を切り開いて行く必要がある」と、ちよは、勤労女子夜学校を開設、近所の工場に通う女性たちや主婦のために午後6時から9時まで、一般学科のほか和裁、編み物、家事一般などの授業を行っていた。

 そこに牧が登場したことによって、大学の若い教師の協力が得られたことから男女共学の「巣鴨労働夜学校」に発展させた。夜学校では、教師と生徒が授業の後に讃美歌を歌ったり、ゲームにも興じるなど和やかな雰囲気にあふれていた。

 毎月1回、託児所の母親同士の親睦を深めるため母の会も開かれ、夜学校参加者らによる同窓会「ともしび会」もできた。ちよの活動は、託児所を拠点にしたかつてない生涯教育学校の様相を呈した。

 こうした活動が実り、後援者が増え、自然豊かな多摩川のほとりに林間学校施設「西窓洞」も開設され、キャンプが行われたほか母親の会、ボランティアにも開放された。働きながら勉学していた牧は、念願かない東京外国語学校に合格。

 セツルメント活動については「細民が自己の生活を自力で打開できるよう周辺から援助することにある」との信念をボランティアに語り続けたが、過労がたたり、結核を患い、療養生活を強いられ、遂に退学した。

 ちよの地域に根差した活動は続くが、1928(昭和3)年、大きな転機を迎えた。東京府が巣鴨近くの大塚に託児所を開設したため、桜楓会が託児所を閉鎖する方針を決めたのだ。これには、地域の人たちやボランティアの学生たちが驚き、廃止反対の運動が巻き起こった。

 しかし、桜楓会は託児所運営の役割が終わったと判断、ちよは、板挟みになったが、施設の使用は許され、ちよが個人事業として巣鴨託児所を継続することになった。名称は「西窓学園」と名付け、これまで以上に幅広い事業を展開する。

 念願だったろうあ婦人のために「ろうあ者職業教育部」を開いた。すでに姉は亡くなり、残された妹の心細さや同じ境遇の婦人のことを思う気持ちが強かったためだ。家から通える婦人を対象に、和裁、手芸などの職業教育を始めた。

 その後の1933(昭和8)年、ちよは健康を理由に日暮里の託児所を退職した。桜楓会は、ちよの献身的な働きに感謝し、西窓学園の建物、設備など一切をちよに贈った。

 
 ちよ46歳、決して若くはないが、気持ちを新たに事業に取り組むのだった。その一つが、学園での給食。出来るだけ栄養価の高い献立を考えるが、保育費からまかなうには無理があり、赤字解消のため学園の玄関で雑貨を売ったことも。

 この頃、牧の健康は回復していたが、託児所の経営が厳しいことを察してか、1935(昭和10)年、財団法人中央社会事業協会に転職した。(敬称略)【若林平太】

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