子らの母 丸山 ちよ④
念願のろうあ婦人の家

2013年0204 福祉新聞編集部
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 一生懸命のちよは、「ろうあ者職業教育部」を拡大、充実させる方針のもと、1935(昭和10)年「ろうあ婦人の家」を開いた。

 当時の入学案内には「ろうあの女性はここで勉学することにより、家庭人及び社会人として円満なる常識と有能なる技術を習得することができます。(中略)将来独力でも安定した経済生活と平和な精神生活とを得ることができる」と目的を記している。

 科目は、教養を身につけるほか、和裁、洋裁、人形制作、染色などの職業教育も行い、経済的自立を図る内容で、通えない婦人のためには寄宿舎も用意し、ちよらしい温かな配慮がなされた。

 このことは、大評判となり、入学希望者が殺到した。北海道から奄美大島に及び、朝鮮の人もいたという。年齢も10代から40代と幅広く、学びたくとも学べなかったろうあの女性の願いがいかに強かったか。中には、お金を持たずに、上京してきたという女性もいたが、ちよは受け入れた。

 こうしたちよの経営姿勢に周囲の支持者らは、さらなる施設、設備拡充は資金的な余裕が出てからにすべきではと心配もした。しかし、ちよは、ミシンなど設備・備品の充実にも熱心で、資金集めに駆け回り、質屋通いまでするようになった。ひたむきな性格そのもの。婦人の家が出来たことで妹が明るくなり、ちよは、念願を果たした安ど感と、充実した気持ちに浸っていた。

 西窓学園には、ちよの人柄に魅かれて様々な人が集まっていた。子どもたちに勉強を教えるボランティアの教師や学生のほか公務員、銀行員、会社員や文学青年など様々で、労働運動や社会運動などにかかわる人もいた。

 子どもたち向けの学習会のほか、大人向けの英語の講習会、エスペラントの学習会が開かれ、時には演劇の上演も行われ、地域のお母さんたちに喜ばれた。市電のストライキの時、争議団を慰問しようと芝居を上演したところ、開幕間もなく警察に解散を命じられ、何人かが検挙されたこともあった。ちよは、こうした時も何も言わず、学園の自由な気風は変わることがなかった。

 ところが、次第に戦争が暗い影を落とし始め、ボランティアの中には学園からの帰途、特高の刑事に腕を取られ、交番に連行された者も出るようになった。1943(昭和18)年になると、空襲を避けるために児童の疎開が始まり、翌年には託児所、復習会、夜学校も閉鎖となった。ボランティアたちも勤労動員や徴兵などで姿を消し始めた。

 ろうあ婦人の家は最後まで残ったが、警察から、それぞれ家庭に帰すか、疎開するように指示された。ちよは、帰る家のない5人を連れ、故郷の米沢に疎開することになった。学園にあったピアノや織物機械、ミシンなど沢山の備品についても、米沢で広い家が見つかれば送ってもらうつもりで支持者らに預かってもらった。

 そんなごたごたの中で、西窓学園の建物を東京女高師(現お茶の水女子大)から譲ってほしいと要請され、疎開先での費用のためにと考え、承諾したのだった。疎開したちよの故郷といっても資産はすべて処分しており、頼る実家もないため、父親ゆかりの菩提寺・法泉寺の一間を借りての不自由な疎開生活となった。(敬称略)【若林平太】

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