子らの母 丸山 ちよ⑤
引き継がれた意思

2013年0211 福祉新聞編集部
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 1945(昭和20)年終戦。東京は焼け野原。家を失い、家族を亡くし、仕事もない人々と孤児たちであふれていた。さらに、軍人の召集解除による復員、海外からの引き揚げ者が加わり、国は戦後処理で精一杯だった。

 西窓学園の建物もなにもかもが灰燼に帰していたが、ちよは、疎開先の米沢から上京、ろうあ婦人の家再建に向け、奔走する。しかし、学園の譲渡金は疎開生活で残り少なくなった上、超インフレと預金封鎖がちよを苦しめた。

 疎開前に支援者らに預けていた学園のピアノやミシンなどの備品のうち、高価なピアノが焼け残ったことを知り、返還を求めたが、持ち主はちよが直接預けた人ではないため、結局は返ってこなかった。

 戦中、戦後を通じ次々と襲いかかってくる理不尽に、気丈なちよも、ついに耐え切れなくなった。1961(昭和36)年、支持者にめぐり会い、再建に向け話している最中、意識を失い、救急車で病院に運ばれた。

子どもたちとろうあの婦人のために懸命に働いてきたちよが倒れたことは次第に広まり、1964(昭和39)年の第二回生存者叙勲で、勲五等宝冠章が贈られた。しかし、1967(昭和42)年、身寄りもなく、ひっそりと杉並区の老人ホーム浴風園で息をひきとった。79歳だった。

 その後、夜間の勉強会に参加した人がちよの死を知り、朝日新聞に投書した。「丸山さんの温情に触れた一人である。ともすれば悪の道に走ろうとする年ごろで、私たちがまっとうな世渡りが出来るように育ったのも、丸山さんやその徳を慕って集まった人たちのお陰なのだ」と。

 ちよの功績が見直され、各地から集まった善意と地元巣鴨の人たちの努力で小さな子どもの遊び場に石碑が建立された。碑文の表は、文部大臣、厚生大臣を歴任した灘尾弘吉全国社会福祉協議会会長の揮毫。

 当時、全国社会福祉協議会事務局長だった牧は、石碑の裏面に「地域の子供や母親たち、またろうあの婦人たちのために心身を捧げた。なお、先生は日本の保育事業発展のために多大な貢献をされた」など、ちよの功績を讃える碑文を起草した。

 1969(昭和44)年10月18日に行われた除幕式では、近くの若草保育園(現・武居裕子園長)の園児が除幕した。実は、この若草保育園の創立当時の主任保母は、ちよが開いた託児所に遊びに来ていた武居あ以子(故人)だった。

 子どもの頃、見よう見まねでオルガンを弾いては歌を歌っていた女の子が、保育専門学校へ進み、ちよの意志を引き継ぐように保育の道に進んだ。結婚後、夫婦で江戸川区内に保育園を開き、戦争で閉園したものの、思い出の地・巣鴨で保育園を再開したのだった。


 
 若草保育園65周年史(平成16年発行)の冒頭「子どもたちと歩み続けて」の中で、「長い歴史の中で、お世話になり私に多大な影響を与えてくださった、丸山千代先生」と書いている。晩年は恵まれなかったちよだが、立派に意志は引き継がれ、現代に生きていることに、満足しているのではないかと、石碑を前に実感した。(敬称略、おわり)【若林平太】

〈参考文献〉豊島区立男女平等推進センター編「風の交差点3−『豊島区に生きた女性たち・丸山千代ともしびをかかげて』」福田弘子、佐々木浩子著。遠藤寛子著「天使はひそやかに」(PHP研究所発行)、西窓学園同窓会誌「ともしび」①②③④
〈写真提供〉佐々木浩子・元豊島区女性史編纂委員

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