「涙と汗」のひと 林 歌子①
勇進せよ、使命なり

2013年0218 福祉新聞編集部
    • このエントリーをはてなブックマークに追加

 児童・高齢者複合施設の社会福祉法人「博愛社」(長野泰信理事長)は、大阪市淀川区の繁華街に建つ。門を入るとチャペルの脇で4人の像が迎えてくれる。孤児救済に短い生涯をかけた創始者・小橋勝之助(1863~93)、その遺志を継ぐ弟の小橋実之助(1873~1933)と妻カツヱ(1876~1964)、そして林歌子=顔写真。「涙と汗」に祈りを込め、母子の幸せと女性解放のため明治・大正・昭和を駆け抜けた社会事業家だ。

 

 江戸時代末期の1864(元治元)年、歌子はいまの福井県大野市で生まれた。「女も男も学問だけはさせる」。武士だった父長蔵は料理・裁縫より孔子の『孝経』を読ませるなど学問での出世を利発な長女に期待した。男尊女卑の世にしては開明的だ。三つのとき生母を失うが、小学校を終え、1877(明治10)年、福井市にあった女子師範学校へ。才媛であった。

 
 入学翌年、明治天皇の北陸巡幸にあたり名代として参議・大隈重信(早大創設者)が師範を訪れている。武家の興亡をつづった頼山陽の史書『日本外史』を学生代表(2人)として御前講義し、ほめられた。33年後、博愛社を視察した大隈と思い出話に花を咲かせたという。

 

 3年余の寄宿生活で卒業し、大野の小学校の先生に。やがて教員と結ばれ、男児をさずかった。ところが林家の跡取りの幼い長男(歌子の弟)が世を去り、「婿を養子に」「嫁こそ婚家へ」と家をめぐる綱引きになった。

 

 2人は生木が裂かれるように離別。しかも生後2カ月の乳飲み子を夫の家へ預けた悲しみは深く、「もう結婚はしません」(貞女は二夫にまみえず)と誓って姓も林へ戻し、妹ら3人を連れ東京へ。歌子20歳であった(再会できぬまま幼子は2年後病死)。

 

 阪急十三駅に近い博愛社に彼女の手帳などが残っている。当時東京にいた小学校時代の恩師の伝記出版を祝う私信(昭和4年)はいう。

 

 19年夏まで職につけず、求職のため浦和に住んでいた旧師を訪ねました。先生は肋膜炎で入院されており、私は日夜2カ月看護し、全快されたのち失意のまま、汽車賃さえなく、浦和から東京へ歩いて帰りました。

 

 そのあと伝記の出た都内の恩師宅で「不慣れな家事のお手伝い」をし、そこで日本聖公会神田基督教会(千代田区)を知り、米国人宣教師ウィリアムズを介して立教女学校に教職を得たとある。医学を志して弟・実之助とともに上京していた小橋勝之助と出会い、ともに受洗し信仰のきずなを築いたのはこの会堂であった。

 

 勝之助は不良少年に対する感化・教導を機に恵まれない子に光をと兵庫県赤穂郡矢野村瓜生(現・相生市)の実家に帰り、1890年、キリスト教の博愛主義にもとづく孤児院・博愛社を創立した。その3年目。婦人を育てる「器量ある女子」の献身をと手紙で歌子へ乞うてきた。

 

 彼女は迷う。5年続いた教職も、父への仕送りもあきらめざるを得ない。有名な『女学雑誌』主幹、巌本善治らに相談。信徒仲間の女性は励ました。「勇進せよ、使命なり」。

 

 失った愛児への償いの思いがどこかにあったのであろうか。1892年、立教女学校をやめ福井へ。父に言う。「歌子は死んだと思ってください」。その足で向かった赤穂では身を切る苦労が待っていた。(敬称略) 【横田一】

    • このエントリーをはてなブックマークに追加