「涙と汗」のひと 林 歌子②
赤穂から商都・大阪へ

2013年0225 福祉新聞編集部
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 博愛社のルーツは兵庫県赤穂郡矢野村瓜生(現・相生市)にある。山陽本線相生駅から北へ10㌔。できて3年目の1892(明治25)年、歌子が旅装を解いたとき、農家に約20人の孤児の暮らす一帯は80戸ほどの寒村であった。
 

 明治の中ごろ、全国に20カ所ほど孤児院があったという。〝児童福祉の父〟石井十次の岡山孤児院(岡山市)はよく知られている。弱者救済は「福祉」ではなく「慈善」だった。
 

 「万国万民ハミナ兄弟ナリ姉妹ナリ…憐恤救助スルハワレラノ天父ニ対スル義務ナリ」。この創設宣言のもと、社は実学教育、孤児院など7事業をすえた。
 

 歌子の着く前年の1891(明治24)年、濃尾大地震(死者7200人)が岐阜・愛知を襲い、被災児で寮生はすぐ膨れた。長兄の小橋勝之助を社長に、2代目・実之助、やがて林家の養子として歌子の異母妹・節子と結ばれる正二ら弟たちが彼らを導いた。耕し、学び、たき木を町で売る。「天は自ら助くるものを助く」−自立の思想だ。
 

 彼女は博愛社の社母として教師、保母、お母さんの3役をこなした。最後の母役が一番きつかっただろう。川で洗濯し、井戸水を台所や風呂へ運ぶ。縫いもの、ご飯は釜炊き。包丁で指を切り、漬物のダイコンを朱に染めたことも。

 
 ときに過労で倒れた。が、村人の宗教的な偏見、事業への無理解の方がこたえた。「まとうところは粗衣、頭髪くしけずるに暇なきもののごとし」。支援者で大阪の実業家・阿波松之助が、歌子の赤穂入り翌年の3月12日たまたま勝之助を見舞い、手記に彼女の姿を残している。
 

 その12日こそ試練の始まりだった。濃尾大地震救援などで心身を消尽した勝之助が闘病のすえ昇天したのだ。30歳。10代の飲酒がたたり、病弱だった。そして小橋家の遺産相続問題。行き場を失いかけた時、阿波松之助は大阪・淀川に近い屋敷の一角の長屋と農地を貸してくれた。1年後、多くを岡山孤児院へ託し、4人の子と21歳の実之助と歌子は商都へ。

 

 やがて子どもは11人へ増えていく。瓜生の家を売った95円は底をつき、貧民夜学校で教える歌子の月給では足りない。幼い子の食事中、年長者は縄をない、賛美歌で空腹を満たすことが50日ほどの間にままあった。幸いアメリカから募金20円が届き、収穫した新米で命をつないだ。そのさなか、福井の父は他界した。
 

 しかし事業への寄付が増え、十三(淀川区)に土地を買って5年後に移転した。さらに5年後の実之助とカツヱの結婚も前途を照らした。和歌山の農家に生まれ、裁縫学校の先生だった新妻の引き出物は子ども70人分の着衣やオルガンも。「張り合いがあって面白いですわ」とこなす〝肝っ玉母さん〟であった。
 

 1912(明治45)年には親との死別、捨て子、貧困、犯罪・不良などさまざまな事情の145人の大所帯になり、彼らは農業、商業、船員、看護婦、保母、歯科医見習いなどとして巣立っていった。
 

 後年、歌子は博愛社の月報(大正元年)に書く。「私共の最も苦しき事は食なきにあらず、衣なきにあらず、子供の前途を誤りし時なり」。(敬称略)【横田一】

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