「涙と汗」のひと 林 歌子③
米国で孤児の窮状訴え

2013年0304 福祉新聞編集部
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 小橋実之助の妻カツヱが博愛社の母になった1904(明治37)年、歌子は祖母の役へと身を引いた。少し離れた社の印刷所へ住まいを変え、5年前の十三移転と同じ年に産声を上げた婦人矯風会大阪支部の会長として廃娼運動に力を注いでいく。

 
 そして1年後、赤穂以来13年ぶりの暇をもらうことにした。アメリカ行きだ。40歳であった。
 

 目的は慈善活動を見聞し、寄付をつのって社の財政を安定させることにあった。〝パン集め〟である。また英語を学ぶことも本人の願いだったと、歌子の半生記『貴女は誰れ?』(久布白落実著、昭和7年)はいう。

 1905(明治38)年6月に横浜港を発ち、帰国は翌年11月。1年5カ月の旅だ。大阪から帰国する宣教師一家に同行、西海岸のバンクーバーへ。サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴを経て、ワシントン、ニューヨークなどを巡った。

 「米国便り」として機関誌『博愛社月報』へ報告しているが、歌子研究を続ける関西学院大学の室田保夫教授(社会福祉学)の論文によると第19報まである。

 
 横道にそれるが、博愛社の卒園者には渡米し医師になった男性もいるほどアメリカとの縁は深い。実之助は1916(大正5)年に視察で、また弟の林正二・節子夫妻(正二は実之助の弟、節子は歌子の異母妹)も明治後半の一時期、仕事を求めて渡っている。

 歌子は幼稚園、保育園、慈善団体などを見て回る。養護施設の大きさに驚き、1905年9月13日ロサンゼルス発の第4報で、女子孤児院は「入浴場、洗面場など…よく整ってうらやましく、無邪気な子供を見て社児を思い出し、そぞろ涙を催し」ている。

 馬の背でほほ笑む幼児のカラー絵はがきをロサンゼルスから発信(9月11日付)したのは同じ頃だ=写真。あて名は〝All Children〟。
 「愛児へ 馬を一疋送りますから中よくかわりがわりに御のりなさい 母より」(原文のまま)。108年前、みなさぞ目を丸くしたことだろう。

 彼女は滞米中、第7回矯風会世界大会(1906年10月、ボストン)にも出席した。矯風会は禁酒運動を主にしたキリスト教の世界的な女性組織だ。日本では東京婦人矯風会として1886年に生まれた(7年後に日本基督教婦人矯風会と改称)。

 33年間会頭をした矢嶋楫子(1833~1925)が73歳の高齢をおして大会のため訪米し、大叔母にあたる楫子の通訳をつとめたのがカリフォルニア州に住んでいた日本人牧師の娘で20代の久布白落実(1882~1972)だった。

 
 徳富蘇峰・蘆花のめいである。歌子が東海岸で募金活動したとき助けてくれたのも落実であった。
 
 その大会の昼休み。広い会場でたくさんの参加者がくつろぐ中、歌子はひとり演壇へあがり、日本の孤児の窮状を日本語で訴えだした。落実は壇上へ急ぎ、英訳を始める。初めポカンと聞いていた参加者は事情をのみ込むと募金をどっと寄せた。

 ニューヨークでは日米の支援者に支えられ、日本音楽会を催している。帰国までに1万5000円の浄財を集めた。それをもとに博愛社の寮を充実し、チャペルも建てた。そして〝募金の天才〟と呼ばれた歌子は子どもと女性への慈愛をエンジンに、次の歩みを始める。(敬称略)【横田一】

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