「涙と汗」のひと 林 歌子④
廃娼に半生をかけて

2013年0311 福祉新聞編集部
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 大阪市内にある「大阪婦人ホーム」(荒川佐智子理事長)は1907(明治40)年、婦人矯風会大阪支部のつくった社会福祉法人である。いま主体は救護施設や保育園だが、開設前年にアメリカから戻った会長・歌子の念頭にあったのは女性の解放であった。

 日露戦後の重い戦費負担は不況を呼び、ストライキなどが頻発。一方、1906年の東北地方大飢饉で博愛社も宮城、岩手、福島から43人の子を受け入れ、130人近くになっている。小橋実之助・カツヱ夫妻の奮闘でもっていた。

 このころ働きたいという女性が多くなってきた。しかし公娼(売春)制度下、苦界へ身を沈める不幸な女性が絶えない。こうした弱者に職を探し、泊まれるシェルターをと募金で大阪・中之島に開いたのがホームだった。東京には矯風会による同種の「慈愛館」がすでにあった。

 娼楼から逃げた人、暴力夫の被害者、子を産む場のない妊婦らが駆け込む。「返せ」と押しかける相手からかくまった。地方から大阪へ来たものの、あてもなく駅頭で迷う女性に声をかけていく。

 「(国を)人の娘を売買する奴隷の市場となすべからず」(歌子)と保護した女性は初めの10年半に8091人、彼女の筆による22年目の報告『涙と汗』(英文、昭和3年)には2万727人とある。「母と子の問題を注目し…た先駆的なもの」(日本婦人問題資料集成)と評価は高い。

 とくに飛田遊郭反対運動は注目された。大阪では二つの遊郭が焼失、閉鎖されたものの、大阪府知事は代替地に飛田(西成区)を指定。矯風会の矢嶋楫子会頭や歌子ら約100人は「母の叫び」と府庁へ初の母親デモをかけ、応対の警察部長に反対請願書を渡したと翌日の東京朝日新聞は報じた(大正5年10月22日付)。

 当時の社会風刺の俗謡「アイドントノウ節」が、久布白落実著『廃娼ひとすじ』(昭和48年)に見える。「私が百万あるならば、林歌子を腰に下げ/松島花魁総身請、国へ帰して、アイドントノウ」(松島は大阪にあった遊郭)。が、建築は翌年認可へ。

 「泣くのを止めよ、婦人参政権獲得に力を尽くすよりほかなし」。1918(大正7)年、大阪で開いた矯風会全国大会。飛田遊郭を見下ろす高台の〝涙の祈祷会〟で、東京から来た久布白落実はゲキを飛ばした。その運動さなかでもホーム暮らしの歌子は週末、博愛社へ。「大きな袋はきっとお土産だ」。持参のお菓子でみなを喜ばせた。家族を大切にする日常であった。

 「一日一生」をモットーに54歳の歌子は売春問題の視察(大正8年)でシベリアへ、ロンドン軍縮会議(昭和5年)には軍縮請願書を手に英国へと海外にも目を注いだ。日中戦争がきな臭さを増すなか、矯風会第5代会頭に。大阪−東京間の汽車を電車のように乗りこなし、駅でビラを配った。常に「動」の人だった。

 太平洋戦争の空襲激化でホームは大阪府茨木市へ疎開。敗戦で公娼制度廃止の覚書が出たことを歌子は病床で聞いた。その2か月後の1946年3月永眠、81歳だった。博愛社で育った子は約7500人。平和のリボンを結んだ地球儀を戴く墓には毎年、新人職員が手を合わせている。(敬称略、おわり)【横田一】

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