菩薩の化身 瓜生 岩①
呉服の行商、人助けも

2013年0318 福祉新聞編集部
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 NHKの大河ドラマ「八重の桜」は戊辰戦争を時代背景に会津藩の砲術指南役、山本権八の娘八重が銃を手に攻め寄せる官軍と勇ましく戦う。八重はまさに〝会津のジャンヌ・ダルク〟。

 一方、同じ戦場で、身の危険も顧みずに負傷兵の手当てを行った〝会津のナイチンゲール〟がいた。この女性は、手当てをしただけでなく戦場に置き去りにされた多くの子どもたちを救い出した。

 後に〝菩薩の化身〟とまで言われた女性は、瓜生岩。1829(文政12)年、会津若松城下から約16㌔北にある小田付村(現喜多方市)の油商、若狭屋利左衛門の長女として生まれた。若狭屋は繁盛し、岩は幸せな幼児期を過ごしていた。

 しかし、岩9歳の時、父が病死、四十九日の法要直後に火事になり店が全焼。やむなく母りえは、村の中心部から約9㌔北の熱塩温泉にある実家の瓜生家に子どもたちと共に身を寄せた。

 熱塩温泉で最も古い温泉宿・山形屋で、郷士の身分。湯守の役も務め、会津藩主の御用湯にもなっていた。ちょうど跡継ぎの男子がなかったので3歳下の弟半治が山形屋を相続することになり、岩も瓜生姓となった。

 少女時代の岩は、近くの示現寺の寺子屋で読み書きを習う平穏な生活を送っていた。14歳の春、叔母が嫁いでいた会津藩の御番医、山内春瓏のもとに行儀見習いとして赴き、裁縫や家事万端について叔母からしつけられた。

 春瓏は蘭学を学んでいた上、和漢の学問にも造詣が深く、温厚で人情深い人格者であった。勤番の日は城で藩士の診察をするが、それ以外は一般の診察も行い、堕胎をなくすための啓蒙活動にも積極的だった。岩は、春瓏のもとで家事以外にも医療の手伝いをするうち叔父の思想や治療、看護の仕方も身に付けたと思われる。

 3年後、岩17歳の秋、叔母夫妻の媒酌で会津高田生まれの呉服問屋の手代、佐瀬茂助を婿養子として所帯を持つ。間もなく城下に店を開業、熱心さと親切な商いぶりに店は繁盛し、茂助との間に1男3女をもうけた。

 ところが、岩28歳の春、夫が結核にかかり喀血、病の床に就いた。叔父春瓏が治療にあたり、岩も懸命に看病した。病気の夫と老いた母、4人の子を抱え生活のすべてが岩の肩にかかった。

 岩は朝早くから呉服の行商に出かけ、夜は家事や看病をこなし、自分のふがいなさを責める夫を励ましながらの日々が続いた。それでも岩は、行商の折に他人の困りごとを聞くと、相談相手になり、乏しい蓄えから、お金を与えたりした。人の不幸を見捨ててはおけない性分だった。

 ところが、父とも頼む叔父の春瓏が1856(安政3)年に死去。1862(文久2)年、岩34歳の春、長い闘病の末に夫茂助が死去した。

 こんなこともあった。城下で若侍と町の若者による喧嘩騒ぎに出会い、岩が仲裁に飛び込み、無事に収めた。見事な仲裁ぶりと普段の徳行が評判となり、藩主松平容保侯の耳に達し、岩は城中に召され、おほめの言葉をいただいた上、御紋章付きの三つ組み木盃に金一封を頂いた。この時代、殿様からこのような表彰を受けることは異例で、城下で大評判となった。

 ところが、夫茂助の一周忌も迎えないうちに母りえが死去、気落ちした岩は店を閉じ、子どもたちを連れ、弟が継いだ山形屋に出戻った。(敬称略)【若林平太】

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