菩薩の化身 瓜生 岩②
いのちに敵味方なし

2013年0325 福祉新聞編集部
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 波乱万丈の岩の人生が紙芝居になっている。岩が、子供たちに語り、子供たちから孫、ひ孫、玄孫にと語り伝えられたものを玄孫に当たる山形屋の大女将、瓜生悦子(83)らが5年程前に作成した。不幸続きに悲観した岩が示現寺に隆覚禅師を訪ねた件。

 「つくづくこの世に疲れやした。亡くなった方々の供養のために尼にでもなりたいと思いやす」。

 岩の申し出に、禅師は、天と地を指し「カーッ」。その一喝は頭の芯に突き刺さるような大きな声。

 「何、尼になりたい。罰当たりなことを。お前には4人の子どもたちや弟の半治がいる。五体満足ではないか。世の中には不幸な人が、この会津にもごまんとおる。今日からは世のため、人のために尽くすがよい」と諭した。

 1864(元治元)年、岩36歳。心機一転を誓い、長い黒髪をばっさりと切り、後ろに束ねた。小柄で丸顔の岩は以来、この髪形に木綿の着物姿で押し通す。岩はこの時の心境を「雲われて光こぼれる雪の郷」と詠んだ。

 戦乱の気配が会津にも忍び寄る。1867(慶応3)年、将軍が大政奉還したものの王政復古の大号令が出され、幕府は朝敵になり鳥羽伏見の戦いで敗北したからだ。

 1868(明治元)年8月20日、官軍は会津盆地入り口の防衛拠点を破り若松城下に迫った。翌21日は藩主容保侯自ら白虎隊士らを率い出撃するが敗れ、城に引き返す。籠城が決まり、町人は城下から立ち退かされ、藩士と家族を城内に収容すると、城下町には火がかけられ、炎上する。

 この時、まだ帰城していなかった白虎隊の一部が飯盛山から炎上する城下町を見て自刃する悲劇が起こる。官軍は三方から城下へ攻め込んできた。紙芝居では次のように記述する。

 「大変だ。じっとしてはいらんにえ。若松さいかんなんね」と岩は、荷車に、薬と食物、衣料を積み込み、若い衆5、6人と若松城下へ向かった。城下に近づくと逃げ惑う人々、負傷者でごった返し、あちこちに死体が転がり、けが人がうめいている。戸板に負傷者を乗せ、空き家に運ぶと治療を始めた。

 岩の行為は、官軍の目にとまり、「会津のものか、何をしておる」と怪しまれたが、「医療の心得がありやすので、傷の手当てをしておえやす」と答えた。「誰の許しを得たのだ」と問われると、「けが人の手当てに誰れの許しも要らねえとおもいやす」と平然と応じ、隊長らしい男に「我らにもけが人がおる。治療してくれるか」といわれると、「いのちに敵味方はございません」と答え、寝食を忘れ、けが人の治療にあたった。

 三輪政一著「会津戦争と瓜生岩子」(岩子の子は敬称。四恩瓜生会編)では、別のエピソードを記述している。

 「岩子は、意外な声を聞いた。それは赤子の声であった。驚いて周囲を見渡すと、累々たる屍の中に三十路あまりの女房が、髪振り乱して数か所の向ひ傷を受け薙刀を抱へたまま倒れて居る。赤子はその背中に泣いて居るのであった。彼女は、父も夫も既に戦死したので、愛児に弔い合戦をさせる心持にてわざと背負って戦場に現れた勇婦であった。岩子は女を抱きあげ、傷口を確かめると意外の深手で、到底治癒の見込みはない。岩子は、この子は必ず無事に育てて進ぜるほどに安心して往生せられよと懇ろに言ひ聞かせ、西方に向かって合掌せしむ、女は傷深き面に微笑を浮かべ、岩子の顔を伏し拝むようにして瞑目した」。(敬称略)【若林平太】

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