菩薩の化身 瓜生 岩③
会津藩士の子らに学校

2013年0401 福祉新聞編集部
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 赤ん坊を背負った若い母親を看取ると岩は、赤ん坊を背負い再び負傷者の治療に努めた。しかし、死傷者の中に乳児、幼児が多数取り残されているのを見つけ、子どもたちを安全な空き家などに運び入れ、赤ん坊は農家に預けた。

 1カ月に及ぶ籠城戦の末、会津藩は、9月22日降伏、23日開城した。藩兵は慟哭のうちに城を出て、藩主は滝沢村妙国寺で謹慎、藩士は諸藩にお預けの身となった。岩は、開城の様子を見に城近くまで行っていた。

 60歳以上、14歳以下の幼老男子と婦女子はお咎めなしとして許されたが、城下は屋敷町、町屋も焼け、帰る家はなく、寝るところもなかった。しかし、藩士家族は農家に分宿と決まり、物置などに収容されたのを見届け岩は、とりあえず安堵した。

 戦闘に巻き込まれた城下の人々は四方に離散したと思われ、戦闘が一段落した後に、周辺地域に子どもたちを預かっていることを告げ、引き取りにきた家族があれば返した。それでも30人余りの孤児が残ったため、岩は山形屋でも引き取り、小田付村などの村人らにも協力を仰ぎ手分けして養育することにした。

 昔、村々には「結」と呼ばれる助け合いの互助組織があり、岩は殿様からおほめいただいた善行の人と知られていたこともあり、村人たちは進んで応じたと思われる。岩の行動は、官軍参謀の板垣退助の知るところとなったが、混乱の中で出会えず、板垣は残念がったという。

 実は、岩の弟半治、長男祐三の2人とも郷士として籠城戦に加わっていた。半治は足に銃創を受け治療中だったが、越後新発田藩に2年間の謹慎お預けとなる。長男祐三は19歳と若かったためか、無事に帰宅した。

 ひと安心の岩だが、戦場で救った多くの子どもたち、農家の物置小屋で暮らす会津藩士の子どもたちが気がかりでならない。このまま捨て置けないと、動き出した。小田付村と隣の稲村の肝煎ら有力者らを説得し、同意を得た上で、1869(明治2)年3月、新政府の出先機関・北方民政局に、教育施設の新設を願い出た。

 これに対し、民政局は、賊軍の子弟に教育を施すことは政策上好ましくないと、不許可に。しかし、岩は「将来は等しく皇国の臣民となるのだから、無学文盲にしておくことはできない」と主張、執拗に願い続けた。


 半年にわたる懇願に民政局側も遂に、許可した。岩はかねて用意しておいた木材で、さっそく建築に取り掛かり、6月には校舎を完成させた。
 

 学校名は、小田付幼学校。藩校日新館の教師、浅岡源三郎を招き、読書、習字、珠算など教えた。ところが、浅岡が落城時に身を隠した会津藩士とわかり、謹慎のため江戸送りの処分と決まった。

 教師を失うことは、学校の存続にかかわるとあって、岩の長男祐三が身代わりを願い出た。当初これも却下されたが、決死の覚悟で嘆願した結果、許され、祐三は喜んで江戸に送られた。かくして幼学校は、支障なく継続された。

 翌3年3月のこと、岩は民政局から呼び出され、褒美金一両を添えられ表彰された。負傷者の治療や子どもたちを救った岩の活動が、明治新政府から公式に認められた。

 この時の表彰文には、戦死者の供養のために岩ら村人が施餓鬼法要を行ったことも触れられており、一時は野ざらしにされていた会津藩戦死者を人として埋葬、供養したことも賞されたのだった。(敬称略)【若林平太】

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