菩薩の化身 瓜生 岩④
深川にならい救養所開設

2013年0408 福祉新聞編集部
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 旧藩主の松平容保は1871(明治4)年には謹慎を解かれ、陸奥斗南3万石に移封され、旧藩士の多くも家族と共に向かった。そのため幼学校の生徒の多くもいなくなり、さらに、学制発布により会津地方にも小学校が開設されるとの知らせが入り、幼学校は閉鎖となった。

 同じ年の5月、東京で謹慎中だった長男祐三も特赦によって無事に帰郷した。母の岩は大喜びだった。ところが大喜びしたのは祐三の土産話に対してだった。深川にある元佐倉藩の下屋敷に設けられていた救養会所という施設が、多くの貧民を救い、困窮者の子どもたちの教育をしていることを聞くと詳しく見てきたいと言い出し、11月に初霜を踏んで上京した。

 
 救養会所の監督大塚十右エ門に実務手伝いを志願し、許された岩は、半年にわたり手伝いをしながら教育の方法、会所の組織、運営方針、経営などを学んだ。帰郷する際、会所の人たちからいただいた餞別で、日本橋の魚問屋から干魚を仕入れ、道々売りさばいた。行商の経験を生かし旅費の足しにしたのである。

 半年ぶりに帰郷した岩は、さっそく村の有力者らと相談、閉鎖となった幼学校跡に救養所を開く計画を立てた。しかし、この計画は、有力者の一人が病死したため中止となり、岩はとりあえず裁縫教授所を開くことに方針転換し、自ら娘たちに裁縫などの指導をし、建物の一部には家のない人や貧困者を住まわせ、事実上の救養所として親切に世話をし始めた。

 長男祐三は、和算に堪能だったことから、測量技術の習得を志し、上京した。当時は測量技術を習得した人はまだ少なく、地方には正確な地図がなかったほど。陸地測量技術と製図法を学んで帰郷し、幼学校跡の一部を使い地元の青年たちに測量術、製図法を教え始めた。

 
 間もなく、政府から土地の測量、地図作りの準備をするように各県に通達が出され、陸地測量班を各地に置くことになり、祐三はさっそく会津北部の測量班長に抜擢され、活躍し始めた。祐三は約15年測量の仕事を続け、その収入で岩の活動を支えた。山形屋を継いだ岩の弟半治には跡継ぎがなかったため、結局は祐三が山形屋を継ぎ、福祉事業に打ち込む岩を支え続けることになった。

 岩は、幼学校跡の裁縫教授所を拠点に、堕胎の防止活動や争いごとの仲裁に入ったり歩き回った。堕胎の噂を聞くと家を訪ね、生まれた子どもはきっと貰うから、お産をして育てていてくださいと頼み、うぶ着に、金一封を添えて帰る。

 しばらくしてから貰いに行くと、子どもに愛情が生じ、「この子は差し上げられない。大事に育てます」というのが常だったという。岩は、母性愛の機微を知った上で芝居を打ったのだった。お金は最初からあげるつもりでいたので、大変感謝された。

 
 岩を頼ってくる貧困者は、一人二人と増え、幼学校跡では狭くなったため、隣村の岩月村にあった廃寺長福寺を借り受け、裁縫教授所と共に移転した。1879(明治12)年4月のことで、裁縫所には20人ほどの娘たちが通ってきており、岩の末娘とめがもっぱら指導に当たるようになっていた。無駄に時間を過ごすことが嫌いな岩は、ひまがあれば、古着の手入れやぼろの繕いをしていた。(敬称略)【若林平太】

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