菩薩の化身 瓜生 岩⑤
東京市養育院でも活躍

2013年0415 福祉新聞編集部
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 裁縫教授所での岩は、受け入れた貧困者が仕事に就いて自立できるように心をくだいた。仕事をした経験のある者で道具のない者には道具を与えて働かせた。また、職に就いた経験のない者には、農家の手伝いをさせた。

 
 辛抱して働く者には励ましてお金をためさせ、自立を促し、なかには立派な農家になった者もいた。岩の評判は、会津から福島まで響き、代々の県令から知遇を得て、中でも三島通庸は道路開発など管内視察で会津に来た際には、岩を呼び、善行を褒め、励ました。岩も、福島に三島県令を訪ね、窮民救済について献策をした。

 福島の人々の間にも次第に岩に共鳴する者が増え、岩が帰依していた長楽寺の一透道奇禅師や有力者から、人々を救う活動への支援を求められ、福島への転居を勧められた。三島県令も福島転居に賛同したため、岩60歳の1886(明治19)年秋、末娘のとめと裁縫修行中の娘3人と共に福島に転居、長楽寺の境内に住居を構えた。

 転居に伴い、福島で貧困児童の教育を行うための組織・鳳鳴会が結成された。さらに、貧困者の救済を行う組織として瓜生会が組織され、双方が競い合うように働き始めたので予想以上の成果を収めた。

 そんな折の1888(明治21)年7月15日、会津磐梯山が噴火した。北側の山腹が爆発のために吹き飛び、5村11集落が埋没し、477人の犠牲者を出した。岩は、檄を飛ばして古着を集め、被災者に贈り、被災死亡者のために大施餓鬼法要を催した。

 頼りにされる存在になった岩に、東京市養育院長の渋沢栄一から同院の幼童世話係長の就任要請がきた。1891(明治24年)3月、東京市本所長岡町の施設に着任して子どもらに会うと、みんないじけて卑屈な表情をしている。笑うことを知らないようだった。

 子どもたちを世話していた東京市の職員たちが、食べさせて面倒を見てやっているのだという気持ちで接してきたことが岩にはすぐに分かった。

 岩は、孤児たちを心から憐れみ、温かい慈悲の心で世話を始めた。すると、子どもらは、次第に笑うようになり、挙動も生き生きしてきた。そして、岩は、子どもらが仕事に就けるように紙袋張りや紙箱作りなどを教え、さらに施設の外の商店や工場などに雇ってもらうことも試みた。

 その結果、施設での生活と外の家庭の生活環境とが大きく違い、子どもらに戸惑いがあることが分かり、施設の生活をつとめて家庭的にし、世間に出しても恥ずかしくない人間に育つように心がけた。

 岩の慈愛に満ちた養育が、孤児たちの表情を生き生きとさせ、心身の健康を取り戻している様子が評判となり、宮城に上がり皇后陛下に拝謁することになった。岩は、この時も質素な木綿の着物姿、会津弁そのままに救済事業について説明した。

 さらに、当時の華族ら上流婦人らで組織された東京貴婦人会の慈善バザーに招かれ、得意の水飴と飴糖煎餅を出品し、多くの貴婦人たちに紹介された。この時も相変わらず木綿の着物姿の岩はかえって注目を浴びた。

 そのためか、しばしば貴婦人たちから高価な衣類が贈られたが、岩は自分が身に付けることはなく、困窮する者に譲ったり、救貧活動で入用の際の質草にしたのだった。(敬称略)【若林平太】

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