菩薩の化身 瓜生 岩⑥
仁慈隠惕(じんじいんてき)

2013年0422 福祉新聞編集部
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 岩の東京暮らしは1年未満だったが、郷里の会津や福島で帰郷を願う声が強いため、なついた子どもたちに後ろ髪を引かれる思いで、帰郷した。

 岩はさっそく救貧事業に取り組み、貧困家庭の子どもらを養育するために「福島育児会」、「若松育児会」を設立した。また、若松には慈善の病院として済生病院を開設、日本赤十字社病院の医師を派遣してもらい貧困者の無料治療を始めた。

 1894(明治27)年7月、日清戦争が起きると、会津地方の支持者の協力でワラで編んだ雪靴を大量に作り、陸軍に寄贈した。政府要人に知己を得た岩は、無料診療所の全国設置意見書などを出した。

 この間、伯爵になっていた板垣退助と会う機会があり、板垣は、戊辰戦争時に負傷兵の手当てをした岩に会えたことに感激、岩の博愛精神、慈愛の働きを褒めたたえた。

 1896(明治29)年5月11日、岩は藍綬褒章を授与された。女性として初の受章だった。翌年の1月末、岩は東京から帰郷したが、風邪と疲労が重なったためか、病床に就いてしまう。

 病床にあっても見舞い客らに、窮民救済の必要を説き続けた。皇后陛下からも見舞いが届けられ、岩は感涙にむせびながら、「老いの身のなかからさりし命をもたすけたまえる慈悲のふかさよ」と感謝の一首を詠んで、翌々日の4月19日に永遠の眠りに就いた。69歳だった。

 岩の死を悼む人は東京でも多く、土方宮内大臣夫人らが、岩の面影を永遠に残そうと銅像の建立に向け募金活動を始め、多額の寄付金が集まり、彫刻家、大熊氏広に依頼、実物大の座像が完成。当時は東京市立だった浅草公園に設置され、1901(明治34)年4月、建設委員長の渋沢栄一らが参列し盛大に除幕式が行われた。銅像の台座には歌人の下田歌子が書いた「嗚呼 刀自は菩薩の化身なりき」の碑文が刻まれている。

 福島でも顕彰の動きが高まり、長楽寺境内、示現寺境内に銅像が設置された。戦時中の金属供出によって長楽寺、示現寺の銅像は供出されたが、浅草の銅像だけは幸いにも残り、現在でも浅草寺の本堂西側の一角から優しいまなざしを人々に向けている。

 岩や支援者が興した事業のうち、福島で1893(明治26)年に設立された福島鳳鳴会の児童養育活動は、現在の児童養護施設「福島愛育園」(福島市田澤躑躅ケ森)に引き継がれている。園には岩が最も好きな言葉といわれる「仁慈隠惕」の自筆の書が飾られている。

 この四文字熟語は辞書には見えず岩の造語かもしれないが、岩は「人には皆、他人の不幸を平気で見ているにはたえられない心がある」との意味だと、子孫や支持者らに説明していたという。

 子どものころ、示現寺や叔父のもとで論語、孟子などを学んだ知性と会津女性の気風が多くの人を救い、福祉の基盤を創ったのだろう。


 
 福島県社会福祉協議会は、福島愛育園の創立百年の1993年「瓜生岩子賞」を創設。社会福祉に功績のあった個人、団体を表彰しており、これまで29人と1団体が受賞。(敬称略、おわり)【若林平太】

〈参考文献〉瓜生祐次郎著「瓜生岩子伝」(瓜生岩子銅像再建期成会発行)、鶴賀イチ文「瓜生岩子」(会津人群像5)、「瓜生岩子刀自」樋口和男文(会北史談第50号)

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