保育の灯 野口 幽香①
姫路中学で紅一点

2013年0513 福祉新聞編集部
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 「児童は、社会保障の恩恵を受ける権利を有する」(国連児童権利宣言第4条)。この精神を盛り込んだ「子どもの権利条約」を日本が批准したのは1994(平成6)年。

 さかのぼること94年、東京にスラムの子を養育する私立の貧民保育園「二葉幼稚園」が産声を上げた。その志を継ぐ「二葉南元保育園」(東京都新宿区)はいま、華族の子弟を世に送ってきた学習院初等科と向き合うようにある。

 両極端といってもよい二つの世界に生きる子らを分け隔てなく愛し、保育に灯りをともしたのは野口幽香(1866~1950)であった。

 幽香、本名ゆか。兵庫県姫路市の姫路城(別名・白鷺城)のすぐそばで、5人兄妹の長女として生まれた。「子どもは宝だ」。父・野口野はよくそう言った。姫路藩の下級武士で、明治維新後の家計は苦しかったが、後半生、今で言えば県教育委員会に勤め、教育に力を注いだ。

 5歳から幽香は寺子屋や蘭学塾へ通い、英語も習っている。小学生のころ一時、父が生野銀山の事務所にいた関係で、フランス人(お雇い外国人)一家とも交流があった。
 

 優しく、情の深い子だった。煮炊きの炭がなくて困っている近くの老婆へ炭をあげたり、杉の脂が赤ぎれの妙薬だからと隣家のお手伝いへ届けている。また「日本へ初めてきた」と父がもらったペルシャ菊などの種を成長表をつけながら育てた。草花を愛で、貧しき人に同情する心もこの頃、芽生えたのであろう。

 小学校を終えた12歳の1878(明治11)年、旧制姫路中学に受かった。現在の県立姫路西高だ。女子禁制というルールは当時なかった。

 しかし、『姫中・姫路西高百年史』が「保育事業の創始者」と紹介する記述によれば「わんぱく坊主どもが珍しさから、紅一点のゆかをいじめて、おちついて勉強することができずに一年だけで退学」した。ロビンソン・クルーソーのような感じだったと本人は回想している(神崎清編『現代婦人伝』中央公論社、1940年)。

 その後、幽香は裁縫塾など花嫁修業的な暮らしに入る。が、向学心は消えず、医師との結婚話の破談を機に、「いっそ学問をさせては」との父の思いもあり、官立の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大)の試験を神戸で受け、合格した。東京遊学は「アメリカへ行くのと同じ位の非常なる決心を要することでした」という(同)。

 入学した1885(明治18)年から卒業生総代として答辞を読む90年(当時の校名は女子高等師範学校)までの5年間は幽香にとり、鹿鳴館文化の息吹を全身に浴び、また私的にも激動期であった。

 
 両親の相次ぐ死と失恋の苦悩の中でのキリスト教入信、そしてフレーベル教育との出会いだ。前者は東中野教会の設立(1947年)へ、後者は「子供ヲ一個ノ人間トシテ取扱フ事」(日記)を念頭に終生をかける幼稚園・保育園活動へと結実していく。

フレーベルは世界初の幼稚園で子どもの本性を伸ばそうと実践したドイツの教育家である。
 

 卒業とともに幽香はわが国初の幼稚園である女子高等師範付属幼稚園(現・お茶の水幼稚園)の保母に。4年後の1894年には永田町にこの年できた華族女学校幼稚園(のちの学習院幼稚園)へ移る。

 麹町の借家からの行き帰り、目に入る不憫な姿があった。東京の3大スラムでは随一といわれた四谷鮫ケ橋の子である。(敬称略)【横田一】

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