保育の灯 野口 幽香②
上流・下層二つの世界

2013年0520 福祉新聞編集部
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 JR中央線四ツ谷駅(東京都新宿区)の改札口を出て、迎賓館と学習院初等科を左右に見ながら坂を10分も歩くと低地へ出る。さらに線路のガードをくぐれば社会福祉法人「二葉保育園」(遠藤久江理事長)の運営する二葉南元保育園と二葉乳児院は目の前だ。静かなこの一帯が1897(明治30)年前後、東京の3大スラムの一つ(四谷鮫ケ橋)だったとは信じがたい。

 人力車夫、日雇いなどが多かった。狭く不衛生な長屋に住み、地面に何か描いて遊ぶボロをまとった子、いたずらや不良、母親に内職の邪魔といわれ、外で弟妹をあやす子、くず拾い−1894(明治27)年開設された華族女学校幼稚園(学習院幼稚園の前身)への通勤の道すがら、幽香と同僚の森島みねが見たのは、こんな風景であった。

 士農工商の身分は崩れ、福祉制度もない庶民にとり、明治期の資本主義下で頼れるものはなかった。「2人は見捨てられた子をなんとかしたかった」。日本近代史研究者で『野口幽香の生涯』(キリスト新聞社、1974年)の著者、貝出寿美子さん(79)は言う。

 2人の通う番町教会の宣教師ミス・デントンはその思いを聞き、東京帝大で哲学を教えていたロシア人の「ケーべル先生」(ちくま文庫『夏目漱石全集10』参照)をかつぎ出す。モスクワ音楽院でチャイコフスキーに習ったピアニストだ。

 東京音楽学校(現・東京芸大)で開いた慈善音楽会で集まった420円が2人へ託された。それから2年後の1900(明治33)年、華族の子弟を指導する傍ら、古い民家を借りて2人が貧民保育園「二葉幼稚園」を開いたのは麹町、四谷鮫ケ橋から1㌔ほど東である。

 このころ、幽香は女高師の同期生、安井てつ(東京女子大第2代学長、1870~1945)と同居。子宮筋腫の手術が失敗、米国留学を断念している。

 3歳児から学齢期まで1日5時間預かる。すぐ定員16人は埋まった。保育料は1日1銭、今の200円ほどだ。貯蓄教育として半分の5厘を園が管理して貯金し、残りをおやつ代などにしている。

 「予防の一オンスは治療の一ポンドに優る」。公衆衛生思想を思わせる言葉で「教育を施し、良き国民と為す」と訴える設立主意書に賛同した華族や実業家らの寄付が支えてくれた。そのリストには幽香の弟の建築家、野口孫市(大阪府立中之島図書館設計、1869~1915)の名もある。

 華族女学校幼稚園と掛け持ちの2人は隔日出勤し、あとは保母を雇った。森島みねは米国カリフォルニアで貧しい家庭の子が通う無償幼稚園で1年ほど実習したことがある。身体や服のノミやシラミを退治し、入浴させ、粗末な弁当(栄養)の心配、病気の治療など課題は山とあった。

 しかし、「おいら」「あたい」「てめェ」「おめェ」といった荒っぽい言葉遣いは、みるみる「あなた」「~さん」へと変容したという。

 これは散歩の話。たくさんの付人で過保護な華族の子弟は、ちょっと目を離すと転び、溝に落ちる。乳母日傘のひ弱さに、幽香はハラハラしたようだ。一方、二葉の先生は木陰で新聞を読み、子どもは野原で遊んでいる。たくましいのだ。

 遊戯や唱歌、運動などを主に、動物園も見学している。感性や創造性を伸ばすフレーベル教育の精神を尊重しつつ、実際は保育の色合いを強めていった。(敬称略)【横田一】

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