保育の灯 野口 幽香③
セツルメントへの変針

2013年0527 福祉新聞編集部
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 二葉幼稚園が家主とのトラブルなどで麹町地区3カ所を転々とし、いま二葉南元保育園のある所へ拠点を定めたのは1906(明治39)年のこと。スラムだった四谷鮫ケ橋の真ん中あたり、3000平方㍍近い皇室の御料地を無償貸与されたのだ。

 新園舎(木造一部2階建て)に移った時、定員は100人に膨れていた。保育料廃止、終日保育への転換も、貧しい親の願いに適ったものであった。

 幽香は家庭訪問のほか、親の会(毎月15日)を大切にした。内職など1日の仕事を終え、乳飲み子らを抱えて園へ夜集まる母親に蓄音機や、琴や胡弓の生演奏を聴かせる。メーンはわが子の〝即席学芸会〟。読売新聞(1908年3月17日付)のルポは−。

 お茶、お菓子でみながそろうのを待つ。その間、一緒に来た園児は習った遊戯を披露する。かわいらしい姿に、「親達は皆な相好を崩して興に入り」、「この刹那こそは貧の苦心忘れ、終日の労苦も何方へか消え去り、うれし涙を流して喜ぶ」。「今日では親達の方で此の日の来るのを遅しと待って居る」と親心を活写している。

 ところで、明治末期から大正初めにかけ、国内は繊維など軽工業から製鉄、造船といった重工業へシフト、都市へ労働者が流入していた。あちこちに新たなスラムができる。幽香がキリスト教救世軍の案内で東京・浅草の夜を、徳永ゆき(1887~1973)と歩いたのは1913(大正2)年夏だ。

 「暗黒の長屋から子供達を引き出して、明るくて空気のよい部屋へ連れて行き、花の咲いて鳥のうたうてる野原で遊ばせ」(幼稚園拡張主意書)たいと願った。
 

 ゆきは女学生のころ園を手伝い、翌1908(明治41)年から職員になっていた。創立者のひとり、森島みねが結婚して第一線を退いたあと、「二葉の大黒柱」(幽香)となっていく。

 酒乱の夫から逃げる母子、家を退去させられた病身の母とその子を園の一角や物置に宿泊させてきた。幼稚園の範囲を超えていた。第1次世界大戦さ中の1916(大正5)年7月、幼稚園の名を外して「二葉保育園」へ衣替えしたのは自然といえよう。

 その5カ月後、新宿御苑(新宿区)に接する借地に新宿分園(園児130人)を開設、ここに小学部を設けた。これが東京市立鮫河橋尋常小学校分教場として移転した1922(大正11)年には学童保育(少年少女クラブ)、夜間診療所、廉売部を、また四谷鮫ケ橋の本園には母子保護の「母の家」を立ち上げた。地域の改良をめざすセツルメント(隣保事業)だ。

 その分園で。開園当日、「おばさん(先生とよぶ事をまだしらず)きれいなとこへいこうよ」と言いながら保育室へ入り、「ここ好きだ」と喜ぶ園児。通りで会った老婆は、「大した事ですなあ、おかげで近處がしんとしてしまひましたよ」と頭を下げた。

 悪童もいた。就学児年齢なのに通学できず、町にたむろする子らだ。園の垣根を壊して竹馬にする、石を投げ込む、風呂口にある炭俵へ火をつける。徳永ゆきは、しかし、遊戯室へ誘って歌を教え、紙と鉛筆を与えて書かせた。

 抱きしめ、「また来なさいね」と言葉をかけると目に涙をためる子も。「今では三度目の四ッ目垣も無事で、花壇の花も美しく咲き香って居ます」と園の年報(1917年)は記している。

 分園は戦後、東京郊外の調布市へ移り、スラムも今はない。(敬称略)【横田一】

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