保育の灯 野口 幽香④
子ども、そして信仰

2013年0603 福祉新聞編集部
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 「老境に入った。無能を感じる」。幽香が手紙で知人へしきりに漏らしたのは1919(大正8)年、53歳ごろと『野口幽香の生涯』(貝出寿美子著)は紹介している。疲れを感じ始め、学習院幼稚園長職を辞す気持ちもあったらしい。が、皇族とくに大正天皇の4男、三笠宮さまの教育を託され、学習院を去ったのは在職28年目の1922(大正11)年であった。

 
 二葉保育園長の仕事に専念するが、5、6年前からしばしば赤字になっていたという(『二葉保育園八十五年史』)。その激務を癒やすのは子どもの笑顔とキリストへの信仰であった。

 
 独身を貫いた幽香にとり、神は終生の伴侶だ。44歳の時、二葉幼稚園で保母のための聖書研究小集会を起こし、やがて「二葉独立教会」と命名、日曜学校も開いた(1918年)。

 
 その3年後、賛美歌「きよしこの夜」の邦訳でのちに知られる由木康(1896~1985)を専任牧師に招くなど、東中野教会(中野区、1947年)へと発展する、安らぎの場であった。

 
 だが、幽香はじっとできなかった。関東大震災(1923年)で新宿分園は焼失、四谷鮫ケ橋の本園も損壊。多くの被災児、母子を収容するため、当時の東京府より復興資金を受け、バラックを含め「母の家」や託児所を急造・増設していった。

 
 その実務を担って奔走した徳永ゆきへ、幽香は1931(昭和6)年に保育園長職のバトンを渡し、さらに財団法人(1935年)になった時、その初代理事長職を任せた。

 
 法人化した年、東京・下町の深川分園を開設。保育所併設の母子ホームだ。本園と含め全体では300人の保育児と母子65世帯200人に達していた。太平洋戦争が始まり、厳しい戦局下、深川分園の母子・職員計21人が、東京大空襲(1945年3月10日)で命を落とすとは夢にも思わなかっただろう。

 
 ゆきに運営をゆだねた幽香は、上落合の通称・幽香庵へ引っ込み、趣味の俳句や花鳥風月、古美術を楽しむ生活に入っている。句の師匠は山口青邨。「托鉢をゆづりて梅の手入れかな」。後事を託した時の心境を詠ったものという。ただし生活は質素だった。

 

 幽香の妹しづの孫、堀江孝子さん(故人・東京芸大名誉教授、ピアノ専攻)が「独りで置いておけない」と幽香と一時同居したという。孝子さんの長女(54)=バイオリニスト=は、「女学校のころ母は英語など勉強をみてもらったことがあるそうです。『優しく、爽やか、それでいて、さばけた人だった』と聞いています」と話す。

 
 聖書研究を続ける一方、宮中へ行き、皇后陛下へ修養講話を講じた。戦火の東京にいられず、群馬県へ疎開するなどして一時中断しているが、敗戦ムード濃い民情を直言したといわれる。参殿は1947(昭和22)年まで15回に及んだと貝出寿美子は書く。

 
 一番の楽しみはやはり幼子との触れ合いであった。戦後、ひとりの捨て子を庵に引き取った。子どもも「大ばばちゃま」と幽香を慕った。

 
 二葉幼稚園の保母でもあったわが国最初の女性少年保護司、藤井琴(1888~1983)に見守られて息を引き取った亡き骸に向かい、「いっしょにおねんねするのだ」とむずかったという。1950(昭和25)年、満83歳であった。あの空襲で焼かれた母子や職員、そしてゆきと一緒に、いま東京・多磨霊園で眠りについている。(敬称略、おわり)【横田一】

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