母たちの母 城 ノブ①
洗礼に父は激怒、「勘当」

2013年0610 福祉新聞編集部
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 「大宮五社大明神」。愛媛県東温市南方にある川上神社の神名石に、まことに力強い筆勢の文字が残されている。キリスト教伝道師から女性保護活動に身を投じ、社会福祉事業に大きな足跡を残した城ノブが8歳の時に揮毫したと伝わっている。

 

 ノブは、当時は伊予国温泉郡川上村大字北方で、1872(明治5)年10月18日に生まれた。父は伊予藩の御典医、長崎で西洋医学を修めた城謙三で、ノブは二女。幼少のころから読書、習字を好み、見事な字を書く子と評判が高く神童といわれていた。

 

   川上神社の神名石建立に際して郡内の庄屋ら有力者から揮毫を依頼されたのだった。高さが2㍍もある石碑の正面には小さく「郷社」、その下に「大宮五社大明神」とある。裏面に「城宣謹書」とある。同神社の31代に当たる野口泰治宮司は「幼女が書いたとすれば、すごい書ですよ。特に、横の線は参考にさせてもらっています」と感心する。

 

   神童ノブは向学心が強く、小学校卒業後は実家から松山まで片道12㌔を歩いて漢学塾に通い、大学、論語、孟子などを学んだ。男勝りのノブは通学に当たって、断髪、袴を付けた男装をしていた。

 

   また、漢学塾での勉学の傍らミッションスクールの私立松山女学校にも通い、英文学と聖書についてアメリカ人のデュークス宣教師から教えを受けた。小学校時代の教科書に記載されていた「神は天地の主宰にして、人は万物の霊なり」という文の意味がよく分からなかったノブだが、聖書の授業を受けたことで「神」についての理解が深まり、一層キリスト教に傾倒していったと考えられる。

 

   ところが、女学校に通い聖書も学んでいることが漢学塾に知れ、ノブは迫害を受ける。キリスト教の会派の一つメソヂスト教会の「日本メソヂスト新聞」=1934(昭和9)年2月10日付=に城ノブが書いた「我が入信動機」という文にこの間の経緯が詳しい。

 

   「多くの男学生の中に女子は私一人でありました。その傍ら私立松山女学校で、英語及び聖書を学んだのでありますが、それが塾の方に知れ、先生よりひどく難詰され邪教を捨てよと迫られたのであります。その折男学生から嵐のような迫害を受け大切な聖書は焚かれ、身体は棒で打たれ、鉄拳は飛ぶという有様で、当時受けた傷は今尚記念として残っているのであります。かかる苦しみと迫めの中に信仰の戦いを続けて、いよいよ内に燃え鍛えられ、間もなく洗礼を志願しました。1890(明治23)年6月8日第2聖日」。

 

   ノブ17歳、両親に相談することなく、洗礼を受けた。

 

   1889(明治22)年発布の「大日本帝国憲法」の第28条で、信教の自由は定められた。キリスト教に対する禁制は解かれたが、「安寧秩序を妨げず、及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有す」とあり、あくまで条件付きであった。

 

   ノブの洗礼を知り、父謙三は激怒した。城家は浄土宗の信徒で、儒者でもあった。思い直すよう説得した。しかし、鉄拳の嵐を耐え抜いたノブの決心が揺らぐはずはなく、父はやむなく「勘当」を宣告。ノブも、旅支度をして家を出るのだった。(敬称略) 【若林平太】

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