母たちの母 城 ノブ②
“運命の人”との出会い

2013年0617 福祉新聞編集部
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 キリスト教への信仰の道を選び、勘当されたノブは、松山女学校を中退する。1890(明治23)年6月、神戸に渡り、キリスト教会を訪れる。洗礼を受けたデュークス宣教師の紹介状があったからだろう、職業学校教師の職に就いた。親からの自立だった。働きながら教会に通い、伝道師になる決心をする。翌年の4月、横浜の聖経女学校(後の青山学院神学部)に進学した。

 

   この学校は、日本に在住していたアメリカ人の女性教師が、「日本婦人に伝道するには日本の婦人伝道者が絶対に必要」と本国の会社に伝えたことから、1884(明治17)年、横浜に開設された。最初のうちは新約聖書の講読と解釈、訪問伝道の方法、讃美歌などの授業だった。

 

   授業は午前中だけ、午後からは貧民街を訪問し、病人を見舞い、編み物、裁縫、料理法などを教え、子どもを集めては聖書の話をしたりした。「伝道の実地訓練に重きを置いていました。学校とは名のみで、全く寺子屋式教育でした」(青山学報第60号、増田金四郎・聖経女学校略史より)。

 

   入学者も毎年数人で、途中で退学する者もおり、1888(明治21)年の第1回卒業生は3人。ノブが卒業した明治28年の第7回生は7人だった。

 

   信仰に生きるということは教会に就職するのと似ていて、ノブは宣教師として弘前教会に赴任、同時に弘前女学校で宗教行事などを行うチャップレンの役割をこなしながら、英語・聖書の授業も受け持った。また、キリスト教婦人矯風会の弘前支部結成に努めるなど若いエネルギーを信仰の道に注ぎ、生きがいを感じ、充実した日々を過ごしていた。

 

   ところが、1895(明治28)年秋、ノブ23歳の時に父が死去。勘当された身だが、母千代からの電報を受けると、母を力づけるために学校を辞職、帰郷した。ノブは、葬儀が一段落すると母に聖書について語り、神の愛を説き、祈った。

 

   自宅を伝道所(後のキリスト教川上教会)にし、村人への布教に努めた。母はノブの姿を見て、遂に洗礼を決意、信者になった。ノブは松山を中心に伝道活動を行っていたが、その後、教会の命で九州へ赴く。

 

   九州の炭鉱労働者への伝道や関東各地の労働者への布教活動にも従事し、1901(明治34)年7月、松山に戻るが、8月には横浜に転出する。母校の聖経女学校での勤務を命じられた。

 

   信仰に生きているノブだが、横浜で運命の人と出会う。彼の名は伊藤友二郎。長野県上伊那郡長藤村(現伊那市高遠町)出身で、ノブと同じ1872年生まれ。明治法律学校中退で、横浜の新聞社に就職、記者の傍ら社会主義者らと交流、街頭演説など活動もしていた。

 

   キリスト教の精神に基づく人道主義、社会改革を目指す考え方と伊藤の社会主義思想が共鳴し合ったのかもしれない。1903(明治36)年12月、二人は母校の聖経女学校礼拝堂で結婚式を挙げた。31歳になっていた。(敬称略)【若林平太】

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