母たちの母 城 ノブ③
子を連れて伝道の旅

2013年0624 福祉新聞編集部
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 ノブが母校の聖経女学校礼拝堂で伊藤友二郎と結婚式を挙げた1903(明治36)年は、ロシア革命(1905年)前夜といえる時代で、日露戦争への足音が次第に高まる中、片山潜、幸徳秋水ら社会主義者の活動が活発になり、1900(明治33)年には社会主義協会が結成された。

 

 一方、政府による思想統制も強まり、非戦論の演説会が中止させられたり、新聞記者への干渉が厳しくなっていた。こうした時代背景のもとノブの新婚生活はたった8カ月で終わる。夫が海外に姿を消したのだ。

 

 ノブの生涯について長男の城一男が書いた「マザー・オブ・マザーズ」は次のように記述している。

 

 伊藤友二郎は幸徳秋水の友人であったため、内務省官憲の追及するところとなり、身の危険を感じた友二郎は海外に亡命した。この事件により翌明治三十七年、身籠れるノブは、友二郎の長兄、伊藤三代太郎宅に身を寄せ、高遠町に伝道所と英語学校を始め、多くの子弟を教育しつつ、同年十月二十四日、長男一男を出産した。

 

 結婚生活はわずか八カ月で終わった。生まれた一男は長兄三代太郎の二男として届出、即日ノブと養子縁組をすませた。ノブは乳児一男を乳母を兼ねるお手伝いに託して、松本、長野方面に伝道を広げ、高遠町にある英語学校、伝道所の仕事を続けるという寧日なき毎日であった。

 

 そんなノブに教会からの新たな指示が出る。1906(明治39)年4月、九州筑豊の炭鉱地帯で伝道しているアメリカ人宣教師の通訳兼伝道師として派遣された。一男を連れての赴任だった。

 

 次いで、埼玉県豊岡町で製糸工場を経営していた信者から、女子従業員の教育と伝道のためにと招かれ、2年後には、静岡市の孤児院・静岡ホームから教会を通じて、ノブに援助の要請があった。すっかり信頼される存在になっていた。

 

 ノブは、製糸工場の経営者と教会の了解も得て、静岡ホームに赴任した。保母の養成・教育に当たるとともに、移転による施設拡充にあたっていた時期で、ノブは忙しく働いていた。

 

 そんなある日、ノブのもとに友二郎が訪ねてきた。6年ぶりのことだった。

 

 梨畑麦秋著「山河遥かに−城ノブ 尋究の旅−」で、著者は外務省・外交史料館の資料などから、海外に出た友二郎の動静を当局がつかんでいたことを書いている。友二郎は危険人物として刑事らに見張られ、シンガポールなどの在外公館からは、外務省に情報が電報で入ってきていた。

 

 朝鮮半島から満州、中国を経てシンガポールに入り、そこに住居を定めたなど。1911(明治44年)5月、シンガポールから船で門司に着き下関、大阪などを経由して静岡に来た今回の旅も。

 

 友二郎はノブを静岡ホーム(現同市葵区井宮町)近くの井宮神社に呼び出し、再会した。友二郎が子どもの成長ぶりをどう尋ね、別の女性と暮らしている自分の近況をどのように報告し、詫びたのか。

 

 「主義と愛」を信じていただろうノブは、どのように詫びを聞いたのか、何と言ったのか、記録は何もない。ただ、日本に友二郎の居場所がないことだけは確認し合ったのではないか。(敬称略)【若林平太】

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