母たちの母 城 ノブ④
女性救済の第一歩

2013年0701 福祉新聞編集部
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 日本基督教婦人矯風会の活動には弘前時代から熱心にかかわっていたノブは、第19回大会が1911(明治44)年夏、京都で開かれると静岡の代表として参加した。青山学院資料センター所蔵の「教会時報」7月29日号雑録欄に「婦人矯風会瞥見」の題でノブが書いた文章が載っている。

 

   「大会は本部とある一二の支部の専有物の如き感がした。大会は全国四十有余の支部によって成り立つものとせば、 −中略− 各支部の現状活動の模様を語り合い、長を取り短を補い互いに相助け興味を持って別れたいのであった」「わざわざ地方から出かけていった自分らには物足らぬ感じがした」(原文のまま)。

 

   ノブにとって4回目の参加だけに、遠慮なく感じたことを書いたのだろうが、6月に一時帰国した夫と再会したものの、別れたばかり。心に大きな傷を負った人を感じさせない。きっぱりと過去を捨て去ったノブの姿があった。 3年の約束だったノブに新しい仕事が舞い込んできた。神戸市で派出看護婦会を主宰し、神戸養老院を創設し、多忙を極めていた同郷で5歳年上の寺島ノブエが助けを求めてきた。

 

   ノブエは結婚して女児を出産したが、夫を説得して25歳の時に京都の同志社看護学院に入学、卒業後は京都、大阪で派出看護婦として懸命に働き、産婆の資格も取得した。神戸で友愛派出看護婦会をつくり、1899(明治32)年には有愛養老院を開設、1903(明治36)年には神戸養老院と改め、故郷から養母、実母、娘を呼び寄せた。

 

   娘には教育を受けさせるためと、自分が病弱だったため母親らに仕事の手助けを求めた。ちょうど、ノブが静岡で働いているころで、教会の関係者がノブの招請を勧めたと思われる。ノブは1912(大正元)年7月、小学1年の一男を伴い、神戸養老院に主任として赴任した。40歳だった。

 

   神戸養老院は、何らかの病気を持ち、自立生活が困難な老人が入居しており、公的助成制度がない時代だけに資金集めに苦労していた。頑健な身体と精神力を持ち、経理、経営の才能があったノブは3年ほどで経営を立て直した。

 

   神戸に来てからのノブは、婦人矯風会の公娼廃止運動にも携わり、苦界から抜け出すことができない気の毒な女性たちを救いたい、と強く願うようになっていた。娼妓の自由廃業が法律上は認められていたが、廃業届を警察に出すには遊郭の外に出なければならず、きびしく監視されている娼妓にとって不可能なことだった。

 

   どうすればいいか考えていたノブは、1915(大正4)年12月、神戸市の背後にある六甲山に連なる摩耶山に3日3晩こもり、神に祈った。長男・一男の著書「マザー・オブ・マザーズ」によれば、3日目の朝、「おん身のふところにあたたく抱きしめてやるのだ」と、神の啓示を受けたという。

 

   間もなくアメリカ・カリフォルニア州の農業者から教会を通じて5ドルの寄付金が送られてきた。そこで、一部は養老院の支援に使い、残りにノブの蓄えを足して1軒の家を借り、「娘の家」と名付け、行き場のない女性5人と一緒に住み始めた。    1916(大正5)年3月のこと、女性救済運動の第一歩を踏み出したのだった。(敬称略)【若林平太】

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