母たちの母 城 ノブ⑤
自殺防止に「一寸待て」

2013年0708 福祉新聞編集部
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 1916(大正5)年3月、神戸市に小さな家を借り「神戸婦人同情会・娘の家」と名付け女性救済事業の第一歩を歩み出したノブは、事業の充実、発展を目指して本格的に動き出した。

 

 教会の牧師、信者に協力を求めるとともに、広く協力会員を募り、浄財を集めるために歩き回った。ノブの呼び掛けは心ある人々の間に広まり、2年後には同市葦合区宮本通2丁目(現中央区)に105坪の土地を購入、新会館を建築した。この時、保護した女性は13人になっていた。

 

 女性たちを保護しても娼妓の場合は、廓の抱え主が追手を差し向けてくる。懐に刃物を隠し持つ男たちだ。清閑寺健著「摩耶山麓の聖女」(婦人倶楽部所収)に、男たちに立ち向かったノブの様子が記されている。

 

 ある時は深夜、新館の窓ガラスをメチャメチャに石でたたき壊された。ある時は逃げ込んできた抱え女の後を追って事務所に乱入した暴漢にピストルを向けられた。またある時は、演説会の会場で、棍棒を持ち、ドスを懐中にひそませた暴漢数十名にぐるっと周囲を囲まれた。

 

 ノブは「何をするのだ。殺すなら、さあ殺しなさい。社会のために、かわいそうな女のために、わたしは最初から命をかけてやっているのだ。私の運動が悪いとはっきり言い切れるなら、切るなり、刺すなりやるがいい。さあ斬っとくれ」。

 

 ぐんと胸を突き出して、にらみつける。そのすさまじい気勢に怖じ気づき、さすがの暴漢たちも、たじたじとなり、退散するのである。

 

 女性たちを保護しても、親元や家族への連絡や相談、自立のための職業教育など健全な生活へと導くのは大変な時間と資金が必要になる。米櫃に米のない日もあり、そんな日はノブや寮母は食事を抜いたという。

 

 同情会の信望が高まり、頼って来る女性が増えて、不幸な女性を救う事業は軌道に乗りつつあったが、自殺者が減らない現状にノブは頭を痛めていた。

 

 第一次世界大戦(1914~18年)後は不況で物価が高騰、農村が疲弊、都会に職を求める若い女性がだまされて遊郭に売り飛ばされたり、親が娘を売る事件まで起き社会問題にもなっていた。

 

 家庭的に恵まれない淡路島の若妻が子どもを道連れに須磨の海に入水自殺する事件が起きたことで、ノブは「親身になって相談に乗ってあげられれば自殺を防げたのでは」ないかと考えていた。

 

 1919(大正8)年の秋、大阪毎日新聞の神戸支局記者の村島帰之に相談したところ、「一寸待て」の言葉を使って、自殺防止の看板を立てたらどうか、となった。列車への飛び込み自殺が多い、山陽線の須磨駅の西側に看板を建てた。

 

 「一寸待て 死なねばならぬ事情のある方は一度来て下さい」との呼びかけと、同情会の所在地を記入した。新聞に載ったことで、雑誌「主婦の友」や「婦人倶楽部」にも大きく紹介された。このため、同情会には直接、ノブを訪ねてくる者、手紙で相談する者の数が増えて、ノブの毎日はますます多忙となった。(敬称略)【若林平太】

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