母たちの母 城 ノブ⑥
被災地に自ら乗り込む

2013年0715 福祉新聞編集部
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 「一寸待て」の自殺防止の呼びかけは、全国的にも大反響を呼んだ。看板を見て相談に訪れ、自殺を思いとどまった人々は多数に上った。

 

   こうした活動ぶりが婦人雑誌にも紹介されたため、「こんな立派な先生のもとで働きたい」と志願してくる女性も現れた。ノブは、寮母に植村タキらを迎え、相談・保護事業の態勢や組織を強化するとともに、1925(大正14)年5月には、神戸市に隣接する西灘村(現神戸市灘区青谷町)に第2期の事業として会館新築に取り組んだ。

 

   帝国ホテルの設計を担当した米国人ライト博士の弟子の設計でライト式と呼ばれた新会館3棟を建設、若い子連れの婦人を処遇する「母子の家」を設置、保育事業としての「青谷愛児園」を併設した。また、婦人自立のために和裁教室も設置した。

 

   新会館は婦人救済と児童保護の殿堂にふさわしいものとなった。翌年3月5日の創立記念日に献堂式を挙行した。ノブの心は、神への祈りと後援者への感謝の喜びにあふれていた。

 

   関東大震災では船で神戸に避難してきた人たちを積極的に受け入れたのに続き、1927(昭和2)年、京都府奥丹後地方で発生した大地震では、ノブ自ら保母、看護婦を率いて被災地に入り、支援のための大きなバラックを3棟建築し、10カ月にわたり救援の託児所を開設。「子どもさんを保護保育するから安心して復興に努力してほしい」と被災者たちを激励し、この時の救援活動で、保護した児童生徒は延べ3万人に達した。国や県の復興事業が進み、同情会のバラック撤収時には、数百人の子どもたちや親が集まり、双方感激の涙にむせんだと伝えられている。

 

   1928(昭和3)年11月にノブは、皇室の観菊会に招待され、翌年には同情会の功績が認められ3000円の特別御下賜金を受け、翌々年1月には宮内省に招かれ、高官の前で婦人救済事業について3時間にわたる講演を行った。

 

   ノブと特に親交のあった神戸大学の英語教師ロイ・スミス夫人が「マザー・オブ・マザーズ」とのタイトルでノブの活動ぶりを紹介する手紙を米国の各教会の婦人会に送ったことから、反響を呼び、米国からも援助が寄せられ、同情会の経営安定と発展に役立てられた。

 

   1935(昭和10)年発刊の「同情会20年史」によると、昭和9年までに同情会に救われた女性は3302人。地元兵庫が最も多く933人、次いで大阪、岡山など。関東や北海道にもおよび、保護理由の最多は、貧困・親または夫との生別・死別・病弱で578人(17・5%)。

 

   次いで父・夫の放蕩450人(13・6%)で、家族の生活苦をいかに女性が多く背負わされていたかが伺える。 相談・指導・厚生の結果、親、夫など責任者に連絡、無事に引き取られたケースは1540人(43%)で最多。次いで「就職した者」763人(23%)。入院させて適切に処置したケース95人、結婚した者69人、出産して退去した者55人。中途退去が64人いたが、個人の立場と人道的な見地に立ち、丁寧に時間をかけて保護と自立支援を行ってきた歴史が分かる。(敬称略)【若林平太】

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