母たちの母 城 ノブ⑦
孤児、未亡人救済に全力

2013年0722 福祉新聞編集部
    • このエントリーをはてなブックマークに追加

 女性の保護と自立支援活動は戦前でも功績が認められ、神戸婦人同情会の会長であるノブは、紀元2600年にあたる1940(昭和15)年10月10日、時の厚生大臣金光庸夫から、聖徳太子像とともに藍綬褒章を贈られ、表彰された。

 

   ところが翌年、太平洋戦争勃発。ノブは平和の到来を祈りながら、銃後の婦人の務めとして慰問袋を戦地に送るのだった。1945(昭和20)年3月には最初の空襲があり、子供の家の児童と職員を疎開させたが、6月6日の大空襲では心血を注いで建設した青谷本館などすべての施設が灰燼に帰した。

 

   ノブは、「これも神の試練」と受け止め、焼け残った空き家に避難、事業の再開に備えた。8月15日の終戦。ノブは直ちに戦災孤児、未亡人の保護などに乗り出した。兵庫県と相談した結果、尼崎市にある旧軍隊の被服廠跡に子供の家の開設を要請されると、さっそく職員20人を集め、孤児180人を保護した。

 

 また、同市内の旧軍関係者の家族住宅を利用して戦争未亡人の母子35所帯を収容し、定員60人の保育園も開いた。一方、焼けた神戸市の施設を再建するため、県に協力を求め、廃材を利用して青谷母子寮と青谷愛児園を終戦2年後の8月再開、母子12所帯、園児60人を収容した。

 

   戦後の食糧不足の時代、アメリカからララ物資が届いたほか、ノブの知人からも教会を通じて援助物資が届いた。復興事業も1950(昭和25)年には落ち着き、灘区青谷の母子寮の隣接地に高齢化した職員のための『憩いの家』を建築、ノブも職員と共に尼崎から移った。

 

   公娼制度は戦後、廃止となり命懸けだったノブの婦人救済活動は実り、気の毒な女性たちの保護事業は県の委託事業として社会福祉法人「神戸婦人寮」に引き継がれた。神戸婦人同情会は、財団法人から社会福祉法人となり、母子生活支援施設、保育所、児童養護施設、特別養護老人ホームなどを運営する。

 

   戦災で焼失した本部会館は1955(昭和30)年に再建、翌年に兵庫県で開催された第11回国民体育大会に臨席された天皇、皇后両陛下は神戸婦人同情会の母子の家と愛児園を視察され、ノブは感激して職員らと共にお迎えした。

 

   晩年のノブは、足が不自由になり、耳はほとんど聞こえなくなり、筆談に頼るようになった。筆談では広告の裏を使うなど、物を大切にし、質素な生活を守った。信仰に生き、女性と子どもの幸せを願い続け、信念を貫き通したノブもついに病床に着く。

 

   1959(昭和34)年12月、見舞いに訪れた当時の兵庫県知事・阪本勝はノブの顔を見つめ「四百万県民に代わって『有難う』と申します」と語りかけたという。同月20日午前4時25分、ノブは家族、職員に看取られ永遠の眠りに入った。87歳だった。大阪湾を望む芦屋市霊園で静かに眠る。墓碑銘は、ノブが書き残した言葉。

 

「与えて思わず   受けて忘れず」

 

 いま、神戸婦人同情会は息子の一男から、孫の純一に引き継がれ、純一は「現代は、ノブの時代とは違った意味で厳しい時代。虐待される母や子どもが増え、各地から逃げて来ている。ノブの遺志を今の時代に生かせるよう頑張りたい」と語る。(敬称略、おわり)【若林平太】

    • このエントリーをはてなブックマークに追加