神奈川の母 平野 恒子①
無鉄砲なチャレンジ

2013年0729 福祉新聞編集部
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 「おさなごにまなぶ」の言葉を胸に、保育者養成へ猛進した人がいる。「神奈川のお母さん」と誰もが呼んだ平野恒子(本名・恒、1899~1998)。子どもが輝く児童福祉を夢見つつ、約1万1000人の女性保育者を世に送り出した情熱家である。

 

 恒子は医師である父・平野友輔が医学部別課を卒業した東京帝大(現・東大)の病院で、一男五女の二女として生まれた(長男は少年期に死去)。日本基督教婦人矯風会の機関誌『婦人新報』1899(明治32)年2月20日発行号の会員消息欄にこうある。

 

 「東海道藤澤平野とし子姉〔藤子の間違い〕去月東京に於て女子出生せられ母子共健全の由めでたし」。ただし、誕生は去月(前月)ではなく、同じ2月であった。

 

 友輔の名は自由民権運動家として、また婚約者・石坂美那子が詩人・北村透谷(1868~1894)のもとへ走った破談で知られていた。東京・八王子で民権活動をしたのち、神奈川県藤沢市で開業、やがて衆議院議員になっていく。

 

 母・藤子(本名、藤)もわが国の看護師として初といわれる『看病の心得』(1896年)を出版。クリスチャン夫婦のインテリ家庭で育った恒子は、地元の小学校から東京の仏英和高等女学校(現・白百合学園)へ進んだ。

 

 卒業後、実家で過ごしていた恒子の前に、ひとりの女性が現れる。二宮ワカ(1861~1930)、婦人矯風会横浜支部長であった。

 

 ワカは、横浜メソジスト婦人会の同志とともに学制発布9年後の1881(明治14)年、貧しく学校へ行けない子を集めた私立警醒小学校を横浜・山吹町で始めた社会事業家だ。大半は授業料免除。服さえ与えた。

 

 それだけにとどまらない。日本人による初のキリスト教幼稚園として今に続く「神奈川幼稚園」(1893年、現・神奈川区)を興した。貧窮地区で「中村町の寺子屋」と呼ばれた警醒小学校付属児童教育所(1899年、現・中村愛児園)を、日露戦争の遺家族のため旧・根岸競馬場近くのスラムに横浜最初の保育施設「相沢託児園」(1905年、現・高風保育園)も創設。また関東大震災(1923年)で壊れた中村、相沢の両園を翌年修復するなど慈善事業のけん引車であった。

 

 矯風会は当時、廃娼運動などに力を注いだ。「横浜に婦人ホームを作る。初代寮長に」と26歳の恒子に白羽の矢を立てた。寝耳に水の話に驚いたらしい。少し前に腸チフスで入院した体をものともせず翌1926(大正15)年、「無鉄砲にも引き受けた」(自伝『児童福祉とわが人生』1982年)。

 

 ホームには20人ほどの女性が暮らしていた。夫から逃れる手助けを僧侶もしてくれた。2年間打ち込んだ。しかし、疑問が頭をもたげる。成長した大人に骨を折っても「すでに遅いのではないか」と。幼児教育への使命といってよいかもしれない。

 

 こうと決めたら突っ走る性格だった。「よく『私はイノシシ年、猛進しますよ』って言ってました」と養子の平野建次・横浜女子短大学長(76)。しかし、中村愛児園や相沢託児園まで引き受けるとは思わなかっただろう。(敬称略) 【横田一】

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