神奈川の母 平野 恒子②
保育の世界へ目を開く

2013年0805 福祉新聞編集部
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 明治期、横浜は西洋文明への窓であった。新橋との間にわが国初の鉄道が開業し、神奈川県庁あたりに十数基のガス灯がともったのは、いずれも1872(明治5)年10月だ。そのころ、生糸と並ぶ輸出品であったお茶の工場が、港に近い外国商館周辺にあった。産地から運ばれたお茶に再度火を入れ、外国へ送り出す。

 

   乳幼児を抱えて働きにくる母親は多く、かわいらしい声でにぎやかな託児空間である「お茶場学校」では、外国の婦人宣教師らがケアにあたったという。神奈川の保育の歴史は、それほど古い。

 

   恒子は幼児教育の大切さを、寮長だった日本基督教婦人矯風会横浜支部の婦人ホームで実感した。2年後に職を辞し、キリスト教にもとづく幼児教育を学ぶため在職中に受洗した身を東京の青山学院神学部に落ち着かせた。1927(昭和2)年、フレーベルなど触れていく。

 

   卒業した同じ1930年の秋、二宮ワカが永遠の眠りについた。「ぜひ後継者に」と請われたのは中村愛児園と相沢託児園の園長職。さすがに迷ったらしい。「貧乏はしたくない」と。正直である。ところが神学部の恩師は「やってごらん、いやならやめるさ」。その勧めを受け翌年、まだ訪れたことのない両園の経営という茨の道へ歩みだした。またもや無鉄砲に。

 

 昭和の初め、世は不景気であった。銀行の取り付け騒ぎ(金融恐慌、1927年)、そして世界恐慌(1929年)。この頃の両園の保育料は月1円。それでも払えず、新聞紙に1日1銭、2銭と包んだ〝おひねり〟を手に登園してくる子も少なくなかった。電気代を払えず、配電をストップされている家族もあったという。

 

   「母の会」を夜開いた。遅くなり、よく中村愛児園に泊まった。明け方まで夜店を出してじゃり道を帰る商売人、未明には逆に港へと向かう沖仲士たち。外から響いてくるさまざまな音で寝つけぬこともしばしばだったらしい。

 

   やはり「貧乏ぐらし」は待っていた。とくに関東大震災のあと急ごしらえのバラック造りだった中村愛児園を建て直そうと、寄付集めに奔走。「あらかじめ『金品醵集許可願い』を出し、承認がいるのだ」。

 

   近くの寿警察署に呼び出され、警告されたこともある。しかし、めげることなく、横浜市南区の現在の土地を入手し、新築にこぎつけ、乳児部も併設した(1933年)。

 

   この間、仕事に追われながらも、恒子は母子保護法の実現にむけ市川房枝、奥むめおらと活動をともにしていた。母子家庭の中には、親が仕事のため夜まで園へ迎えに来られず、近所の知り合いに園児を託したら、そこでは結核患者が寝ていたりと悲惨なケースもあった。

 

   「母子を幸せに」と慈善団体や当時の内務省などへ足を運び、助成を訴えた。努力は実り、中村愛児園の隣に春光園母子寮を開いたのは1935年。貧しくとも、母子約40人の団らんが絶えない安息の場であった。(敬称略) 【横田一】

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