神奈川の母 平野 恒子③
母へ仕事を、子には愛を

2013年0812 福祉新聞編集部
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 「仕事ノナイ母ニ職ヲ与エ(中略)将来アル彼等ノ児童ニ対シテ淋シイ家庭的欠陥ヲ補イ」との目的で春光園母子寮は1935(昭和10)年、落成した。キリスト教の家族主義をベースに暮らし、幼児は隣接する中村愛児園で保育をした。行政からの助成はなく、寄付頼りであった。

 

 さまざまな人生が交錯した。2人の子と逃げてきた妻を追って、行方知らずだった夫が突然刃物を手に押しかけ、恒子がこんこんと諭すこともあった。また、寺へ嫁入りしたものの、うまくいかず、死のうとしたとき、交番の巡査に園を教えられ、命をつないだ4人の子を持つ神主の娘。「キリスト教に助けられた」と喜んだ。

 

 派出婦業や、幼児のいる女性は輸出用の服を仕立てる内職で稼いだ。1銭の貨幣を入れるとその分だけガスの出る「1銭ガス器具」といったもので、朝夕の食事を作る光景があった。夕方から夜は作業をやめ、床の底が抜けるかと心配になるほど集まり、にぎやかな母子団らんのひと時があったという。

 

 しかし、寮の外では暗雲が漂い始めていた。東北地方の冷害(1934年)と窮乏、青年将校による「2・26事件」(1936年)、そして日中戦争(1937年)。

 

 この頃、園児の弁当調査をしている。一部の小学校では生活保護家庭の児童は給食を受けていたが、少し残して家へ持ち帰り、姉弟に食べさせる子さえいた。持参の弁当箱には毎日煮豆という子もおり、園長就任7年目の1937年、中村、相沢の両園で昼の園児給食(副食物)を始めている。月60銭という安さであった。

 

 一方、戦況はキナ臭さを強めていく。夫が開戦初期の上海上陸作戦や南京攻略で戦死したとの公報が遺族の元へ届きだしたことも恒子の耳に入ってきた。駅頭などでは出征兵士として夫や息子を戦地へ送り出すバンザイの声がこだました。銃後に残された遺家族の不安を癒したいと1940(昭和15)年に開いたのが「横浜母性学園」であった。

 

 寄付を募り、中村愛児園に近い借地に新築、若い母親のための育児相談、食生活講座などのほか、生け花や修養講座も持った。生活センター兼サロンのおもむきだ。

 

 恒子の目算は専門的な知識や技術にたけた保母の養成にあった。このため、学園に併設する形で神奈川県に養成校の認可を要請した。いまでは信じられないことだが、「入学生はいるのか」「卒業して就職はできるのか」と疑心で見られたという。そのたびに、「今後ますます必要になります」と恒子は答えている。

 

 翌41年6月、横浜保母学院(各種学校)として認められた。第1期生は12人、1年の修業年限。当時、保母課程の正式なカリキュラムはなく、幼稚園保母にならった。国語、理科、保育、音楽、遊戯、図画、生理衛生、栄養学、裁縫といった科目が並んだ。日米開戦(真珠湾攻撃)の半年前である。

 

 戦争の遺族8人、留守家族3人を含む卒業生12人は1年後、全員が保育園、託児所で働き始めた。いまの横浜女子短期大学(横浜市港南区、平野建次学長)の船出である。(敬称略)【横田一】

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