神奈川の母 平野 恒子④
すべてを空襲で失う

2013年0826 福祉新聞編集部
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 神奈川県の担当者の不安は的中した。横浜保母学院を立ち上げたものの、入学生は第2期、第3期と低調であった。一変したのは天皇・皇后両陛下の使者が中村愛児園、春光園母子寮を訪れたこと(1942年)。事業に対する皇室の関心は評判になり、志願者は定員30人に160人も詰めかけたのである。

 

 しかし、その歯車も次第に悪化する戦局で狂っていく。米軍による本土空襲に備え、学童疎開の命令が出るなど、150人ほどいた中村愛児園、100人ほどの相沢託児園の子どもたちの一部は幼児疎開として神奈川県中部、丹沢山系のふもとの農村地帯である成瀬村(現・伊勢原市)の寺へ避難。荷物も少しずつ運びつつあった。

 

 じりじりと日本の本土へ迫る米軍。とくに1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲を皮切りに、B29による空爆は全国54都市に及んだ。横浜も例外ではない。

 

 恒子は5月29日の昼、神奈川県庁(中区)に用事があった。成瀬村の寺の境内に炊事場、手洗い場を新築するため使うクギの特別配給申請である。太平洋戦争の末期、こんなものさえ欠乏していた。

 

 旧国鉄・桜木町駅で降りたとき、空襲警報のサイレンがこだます。急いで県庁へ駆け込んだ。しかし、焼夷弾の炎は熱風となって体に刺さった。

 

 「ここで蒸し焼きになるより一層外へ出ます」

 

 そう言って職員に借りた宿直用の布団を1枚被り、近くの横浜港・山下公園へ。あたりは火の海。熱風を避けるため布団を海水に浸し、それをまた被って愛児園や母子寮のある南区を目指す。

 

 「お母さんの背におんぶされ、外へ出ている赤ん坊の両腕だけ炎に焼かれ、泣き叫んでいたそうです。逃げる途中の光景ですが、つくづく悲惨だと話していました」。平野建次・横浜女子短大学長は思い出す。

 

 さほど遠くない距離ではあるが、たどり着いたのは夕方だった。園長就任以来15年間にわたって築いてきた五つの施設はすべて灰燼に帰していた。園児や職員に死傷者がなかったことが、せめてもの慰めであった。

 

 この空襲をきっかけに母子寮の疎開も本格化していく。成瀬村の施設は「青々園」と命名。また、一部は横浜市や川崎市などの児童を受け入れる長野県神坂村(現・岐阜県中津川市)の公民館へ。神坂村は小説家・島崎藤村のふるさと、木曽路にある。

 

 敗戦(8月15日)を恒子はこの信州の村で迎えている。入村してまだ1カ月ほどであった。全身の力が抜けていくようで、周囲から「急に白髪になった」とびっくりされるほどだったと後日回想している(自伝『児童福祉とわが人生』1982年)。

 

 焼け野原になった横浜へは翌月戻った。虚脱感に包まれた。その時、宮内省の次官から手紙が届く。戦後の厚生事業のあり方について聞きたいという。会って侍従長に励まされた。「よい社会事業をしている方にはクリスチャンが多い。もう一度立ち上がってください」。新たな光を彼女は感じた。(敬称略)【横田一】

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