神奈川の母 平野 恒子⑤
国際人として「公」の舞台へ

2013年0902 福祉新聞編集部
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 再興へ心はせくが、物資は足りず、思うにまかせない。そこで紹介状も前触れもなく、もんぺ姿で単身、横浜・伊勢佐木町のデパート「野沢屋」にあった米軍軍政部へ乗り込んだ。片言の英語で疎開事情を伝えたのであろう。聴いていた厚生担当の将校は立ち上がった。「よくわかりました。〔これから〕お話のところに行きましょう」。

 

 2人を乗せたジープは途中、連合国軍総司令部最高司令官マッカーサーが33日前の1945年8月30日、日本の土を踏んだ海軍厚木飛行場(神奈川県)を案内しながら、成瀬村(現・伊勢原市)へ。米軍が来たと身を隠した職員や子どもは、ジープから降りてきた恒子の姿に安心し、出てきたという。

 

 翌日、将校は「今後の社会事業界の一典型として、この事業は必要」との英文推薦状を神奈川県へ提出。ほどなく県から特配を受けた木材で中村愛児園は翌46年秋、新築された。

 

 外地から引き揚げ、行くあてのない母子、街にあふれる戦災孤児や浮浪児を救う施設づくりも、彼女は急いだ。横浜市の教員修養道場として横浜港を望む本牧の高台にあった高風寮を借りた。

 

 ここに相沢託児園の流れをくむ「高風保育園」を、また併設の形で新たな養護施設「高風子供園」を、寮のホールを仮校舎に横浜保母学院も立ち上げた。さらに金沢八景に近い元海軍航空技術廠工員宿舎(「金沢郷」と呼ばれた引き揚げ者村)に春光園母子寮をいずれも1947年までに再開していく(母子寮は藤沢市などにも設けたが、その後すべて行政などへ移管または廃止)。

 

 このころから恒子の肩に公務がかかってくる。国の保母養成施設設置基準の審議会メンバーに、同じ1948年には神奈川県の初代教育委員のひとりに選ばれた(任期4年)。いまは首長が議会の同意で決めるが、第2期までは公選制つまり市民による選挙であった。

 

 さらに2年後、アメリカ政府の招きで「児童および青年のためのホワイトハウス・カンファレンス(白亜館会議)」のため渡米。10年に一度、米大統領が児童福祉のために開く世界的な会合だ(その後、2回参加)。翌1951年には国連の奨学金を得て、カナダで5カ月ほど社会事業と児童福祉を研究している。国際人への脱皮であった。

 

 横浜保母学院はその後、県の委託校として横浜保育専門学院へ、さらには当時では珍しい保育科単科の横浜女子短大(1966年)へとカリキュラム、学生数を充実させながら発展していく。

 

 その足跡から、神奈川県の故・長洲一二知事は恒子を「神奈川のお母さん」と呼んだ。病院での最後の床まで「感謝」という言葉を口にしならが1998年、幼きものと弱きものに尽くした98歳の生涯を閉じた。

 

 気性は強く、たくさんの寄付も募った。しかし、恒子から「保育原理」講座を引き継いだ鶴山マサ子・元横浜女子短大教授(79)は懐かしそうに、こう振り返る。「本当に集めたのは人の心でした」。(敬称略、おわり)【横田一】

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